secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ディパーテッド

2009-09-06 23:21:54 | 映画(た)
評価点:61点/2006年/アメリカ

監督:マーティン・スコセッシ

それでも生きなきゃならないから、人生は重いのだ。

イタリア系マフィアを嫌うコリン(マット・デイモン)は、アイルランド系マフィアのボスであるフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)の計らいで、警察学校に進んだ。
優秀だと認められた彼は、州警察でも特別なSUIに採用される。
一方、SUIのメンバーだったビリー(レオナルド・ディカプリオ)は、潜入捜査としてマフィアのメンバーとなるように指示される。
両者は互いに存在を知られないように行動していたが、ある時お互いの組織に紛れ込んだスパイがいることを悟る。

インファナル・アフェア」の待望のリメイク作品だ。
マフィアと警察が互いに送り込んだスパイを探り合うという設定が、上手く処理されていた原作は、香港映画の中でも完成度の高い部類に入る。
それがマーティン・スコセッシ監督にかかるとどのようになるのか、非常に期待できる作品だ。

さらに、役者が半端ない。
マフィアのボスに「シャイニング」のジャック・ニコルソン、最近やっと出る映画を選ぶようになった(?)ディカプリオ、やっと悪役にこぎつけたマット・デイモン。
さらに「猿の惑星」のリメイクにも主演したマーク・ウォルバーグ。
これ以上ないとも言えるほどの力の入れようだ。

このリメイク版権を買ったのはなんとブラッド・ピット。
今回は役者としてではなく制作で携わっている。
ここまで「安全パイ」で望んだのだから、ミスは許されない。
ややこしい話ではあるが、マフィア映画が嫌いでないなら見て欲しい。

もうご存じだとは思うが、この批評をしたためている間に、アカデミー賞をとった。
監督賞と作品賞に値するか、是非、自分の目で確かめてほしい。
 
▼以下はネタバレあり▼

と前置きでは期待させておいたが、あまり面白くはなかった。
オリジナルを知るものとしては、変えて欲しいところを変えてくれた喜びと、変えて欲しくなかったところが変わってしまった悲しみを感じている。

オリジナルがあまりに鮮烈で、印象的で、完成度が高かったため、どうしても原作との比較になってしまう点を許していただきたい。

リメイク作ということもあり、どれくらい大胆に脚色してくれるか、という点に興味があった。
しかし、まさにリメイクであり、大きな変更点は少なかったといえるだろう。
最も変更された点は、なんと言っても構成だ。
いきなりマフィアとの取引から始まった原作は、最初に把握すべき情報があまりに多すぎて、観客に対する負担が大きかった。
そのため、「ディパーテッド」では、物語の時間と映画の時間展開をほぼ平行して順を追って描いている。
さすがにアメリカでヒットさせたいのなら、観客側への配慮も必要だったのだろう。
それは正解だった気がする。

幼少の頃から複数のマフィア組織が暗躍する街で育ったコリンは、警察学校に送られる。
これは警察として活躍することを期待してではなく、警察側の動きを監視するためによこした「スパイ」としてボスのコステロが敢えて送り込んだのだ。
優秀なコリンはすぐに出世街道を進み、特別捜査チームに加えられる。

この辺りのシークエンスではコステロの異常さと、コリンのマフィアとのつながりの強さを示したかったのだろう。
だが、僕はこの冒頭の出来は今ひとつだった気がする。
コリンの設定(人物的なアウトライン)はある程度理解できるようなシーンだが、コリンのコステロへの忠誠心は描き切れていない。
つまり、どれだけ彼に感謝し、どれだけ崇拝しているかという点を、もっと丁寧に、もっとしっかりと描くべきだった。
それが、後の「FBIの犬」という裏切りへの伏線になるからだ。
コステロへの忠誠心が強ければ強いほど、後の裏切りが絶大なものとして迫ってくる。
この映画のコリン側の描写不足は、この冒頭にあると言える。

一方それと対照的なのはビリーの側だ。
ビリーは二人の上司からの命令でマフィアへ潜入捜査をするように命じられる。
彼の受刑状況や、悪に染まっていく際の動揺の様子が、ちょっとわかりやすすぎるのではないかと思えるほどしっかりと描かれているため、彼のアイデンティティが揺れる様子が克明にわかる。
そのため彼には感情移入しやすいように設計されている。
だが、人を殺す時や悪事をはたらく時にまであからさまに動揺してみせるため、かえって説得力がない。
「そんなことは潜入捜査の役を受ける前から分かっていただろう」と思えるのだ。
警察官として職務を全うするための冷酷さのようなものがなく、あまりに脆弱な人物のように映る。
そのため、逆に興ざめしてしまった人もいるだろう。

また、そもそもの彼の設定じたいに違和感がある。
潜入捜査をさせていることを知っているのが上司二人だけというのはちょっと不自然だ。
身元を絶対に保障するということがなければ潜入捜査は思い切ってできない。
確かに味方にも最小限にとどめるべきだろうが、
それでもクリック一つで身分を保障する記録が「おじゃん」になるというのはアメリカの捜査体制としては、ありえないだろう。
オリジナルに忠実にしすぎたのではないか。
まあ、香港ならありえるかも、と思えるのは偏見かもしれないが。

その意味でこの映画の警察の体制は非常に脆い。
例えば、潜入捜査官がいることをみんな知っているのに、その身元を知っている唯一の生き残りである人間を安易に長期休暇を与えたり、その業務を引き継ぐ人間がだれもいなかったり。
オリジナルとほぼ同じ設定、展開だが、香港映画で、しかも展開が早い映画だったのであまりばれなかったが、これほどゆっくりしたテンポで描いてしまうと、どうしても不自然な点が出てくる。
このあたりの設定については絶対に脚色すべきところだったはずだ。

二人の話にもどそう。
この映画の肝となるところは、お互いの身分がお互いにばれないようにしなければならない、という点ではない。
むしろ、ばれないようにした上で、自分の二分するアイデンティティが乖離していく様子を描いていくことだろう。
つまり、良いとされるが実際にはマフィア側のコリンと、悪事の限りを尽くしながら、実際には警察官であるというビリーが、いかに「自分らしさ」を保つのか、という点だ。

その点については、両者とも描写不足と言わなければならないだろう。
特にコリン側は、先にも触れたように、いかにコステロを敬愛し、警察を逆に憎んでいるかという点をもっと露骨に描いてい欲しかった。
そうでなければ、ラストで裏切るコリンは、あまりにも無哲学で、強者について行ったという印象しかない。
コリンは、ただコステロを利用していただけなのか、コステロに脅されていただけなのか、それとも心底崇拝していたのか、かなり重要なファクターだったはずだ。
クソみたいな刑事にでも成り下がって生きなければならない、という点を描き出すためには、コリンの内側をもっと描くべきだったろう。

コリンとビリー双方にとって重要だったのは、コステロという人物だ。
ジャック・ニコルソンは「適切に」「正確に」演じたと思う。
だが、監督はこのコステロを生かし切れなかったように思う。
異常で、奇抜、そして残酷というキャラクターは、印象に残るほどの強烈さがあるものの、ビリーとコリンという二人の「橋渡し」という役目までは至っていない。
つまり、彼らに共通の人物、彼らの双方を知る人物としては、
もっと効果的に利用できたのではないか。

例えば、コステロがコリンに電話で「警察なのに、こんな汚い仕事をするなんて、
逆に恐れいるね! そいつはこの仕事に耐えられるのかね」
というような台詞を言わせる。
これだけで、コステロの悪の哲学に加えて、ビリーとコリンの二重生活に対する矛盾も同時にあぶり出す。

これは今僕が思いつきで書いたことだから、一例にすぎないが、このような「はしご」となる台詞やシーンをもう少し入れるべきだっただろう。
それだけで二人のアイデンティティの乖離という葛藤が、もっと色濃く表れたはずである。

その橋渡しに一役買っているのがカウンセリングを担当する女医である。
彼女はもう少しきれいどころを持ってきて欲しかった気はするが、とにかく二人を知りながら二人ともに惹かれていくというのは面白かった。
だからこそ、彼女とのやりとりをもう少し丁寧に、両者の印象の違いが分かるようなシーンを入れて欲しかった。

大筋はオリジナル作品と変わらない
細かいシーンや駆け引きも、ほぼ忠実にリメイクしたといっていい。
「後出し」になってしまうリメイクは忠実であればあるほど、損をしてしまうのは言うまでもない。
こんなふうに考えてしまうのは、おそらく筋を知り尽くし、なおも+アルファを期待するからなのだろう。
ハリウッドの脚色力は相当なものだと思っているからこそ、オリジナルにあった不備や不自然さなどを解消して欲しかったのが本音だ。

だが、この映画には一つだけオリジナルに付け加えられたシーンがある。
それが、ラストのディグナムによる暗殺だ。
このシーンによって僕の評価は急落した。
インファナル・アフェア」とは「終わることのない地獄」という意味だ。
つまり、自分の本当の身分を明かすこともできず、戻ることもできずに生きていかなければならないという残酷な結末を意味している。
そこにオリジナルのおもしろさがあり、魅力がある。
アイデンティティが乖離した状態で、なおも生き続けることの〈かなしみ〉を描いているわけだ。

だが、このリメイク作では、それを殺してしまう。
まさに「終わってしまう」のである。
これはあまりにもいただけない。
おそらくこのシーンはアメリカ人観客を意識したものなのだろう。
勧善懲悪でなければならないのが、アメリカ = ハリウッドの常識だ。
このまま悪が生き続けるということが国民性として許せなかったのだろう。

それにしても、この結末はない。
しかも、それまで息を潜めていた上司がいきなりここへ来て殺しに来るというのは、唐突すぎるし、何よりディグナムの心理が全くつかめない。
もっと他に復習する方法があったはずだ。
なぜなら彼がビリーの潜入捜査の最高責任者であるわけだから、恋人に届いた証拠を持ってすれば、十分に立件できたはずだ。
それなのになぜ殺す?
殺してしまえば、マフィアとやっていることは変わらなくなってしまう。
単なる殺人鬼であり、復讐そのものが正義と無関係になり、無意味になってしまう。
無理に「終わらせた」としか思えない。

このラストがオリジナルにはない、リメイク作としての映画のテーマを浮き彫りにする、というようなラストではないのだ。
これは改悪という他ない。

スコセッシも監督賞を受賞したが、彼としてはリメイク作での受賞は不本意だったのではないだろうか。
この映画が彼の監督としての技量を示しているとは、はなはだ疑問だ。
これほどまでの人間ドラマなのに、一人の人間として立体的に描出しきれているとは言えない。
この映画を駄目にした決定的な素因はそこにあるだろう。

(2007/3/5執筆)

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