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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ウルフ・オブ・ウォールストリート

2014-02-25 17:38:46 | 映画(あ)
評価点:67点/2013年/アメリカ/178分

監督:マーティン・スコセッシ

この作品がオスカーとったらすごい。

1980年代、アメリカのウォール街は大盛況だった。
大金持ちになろうと株屋を目指していたジョーダン・ベルフォート(レオナルド・ディカプリオ)は資格を取得したその日に株価が暴落し、会社が倒産となった。
失意の中で見つけた小さい会社でペニー株という上場以下の小さい株を売り、大きな業績を上げる。
言葉巧みに業績を重ねた彼は、独り立ちし、より金持ちの顧客を相手にするため、会社を設立する。
会社は彼のもくろみ通り大成功するが、利益が大きすぎることから違法取引の疑いをもたれ始める。

マーティン・スコセッシとディカプリオのタッグはこれで5度目。
「アメリカン・ギャングスター」「アビエイター」「ディパーテッド」「シャッター・アイランド」の4作品が過去に公開された作品だ。
レオ様は日本でも人気があるので、見た人は大勢いるだろう。
今回はこの作品で一時休業宣言もされていることから、注目度も高い。
さらに、オスカーの作品賞でもノミネートされている。

予告編を見る限り、明らかにお下品な印象を受けるが、果たして?
レオ様の映画ならたとえ評判が悪かろうと見なければならないので、平日の休みに映画館に行った。
3時間ほどある長編である。
レオ様の言うとおり、けっこうヘビーな演出やシーンも多い。
心して映画館に行くべきか。

▼以下はネタバレあり▼

これがアメリカっていう国なのだろうなぁ、ということがこの映画を見終わっての率直な感想だった。
さまざまな面でそういうふうに思わざるを得なかった。
3時間近く(予告などを含めると3時間は優に越える)もこの映画のために時間を割いて、結局そういうラストになるんだ、と。

この映画を一言でいえば、「中身がない」ということだ。
どこからみても、どこを切り取っても、中身がない。
もちろん、映画のテーマも中身がない。
だから、エンドロールが始まって感じる〈読後感〉は「疲れた」の一言だ。
いや、それがおもしろくないということではない。
ただただ疲れる映画なのだ。

ディカプリオがこの映画を撮って、大変だった、疲れたからしばらく休業したいと言ったというのは本当だろう。
金持ちを演じるのも楽ではない。
彼の演技からは、いくらお金持ちになっても、その「心から今の状況が楽しい」とは感じられない悲しみみたいなものが漂ってきて、逆に哀れさを出そうとしているのだろうとさえ思った。

口から生まれてきたような男、ジョーダンがいかにのし上がっていくかを描いた作品だ。
ただ、ひたすら相手をだまして巨万の富を築いていく。
冒頭で上司が彼に説明する。

「株でもうけてその金を家に持って帰らせるな。
それは本当の「お金」になる。
そうではなく、その稼いだと思ったお金をさらに次の投資に使わせるんだ。
そしたらそれはどんどん増えていく。
数字上ではな。でも実際には何も変わらない。……それがいいんだ。」

アメリカの投資事情は世界恐慌を経ても、大戦があっても、何があっても変わらないのだと痛感させられる。
彼らは何も生み出さない。
ただ、その場を漂っているだけだ。
歴史もなければ実態もない。
数字上で「勝った」「負けた」を繰り返している。

それはまさに麻薬でラリった状態でお酒と女を味わうのと同じかも知れない。
彼自身がその現象に漂っている。
贅沢をするために、お金持ちになるために、お金を稼いでいるのだろうか。
違う。
ただ、漂っているだけなのだ。
地球が回っているのと同じだ。
目的などそこには存在しない。
お金があるから使うのだし、稼げるから稼ぐのだし、だませるからだましとるのだ。
「悪の法則」などよりももっと性質(たち)が悪いかもしれない。
彼らは少なくとも「何か」を生み出していたから。

けれども、この映画に登場する者たちは本当に何も生み出さない。
彼らによって虐げられた多くの投資家も全く姿を現さない。
一コマもシーンに組み入れてもらえない。

何度も書くが、だからといってジョーダン自身が幸せだったわけではない。
ただ泳ぎ続けたというだけだ。
まるで酸素と餌を求めるために泳ぎ続けている回遊魚のように、止まるわけにはいかないから泳いでいるだけだ。
傍からみればそれは楽しそうに見えるかも知れない。
けれども、彼はただ必死に泳いでいるだけだ。

物語は、たいてい事件が起こり、そこに結果が生まれる。
殺人事件が起こり、解決することでコナンが蘭と心的距離を近づけるように。
この映画にはそんなものはない。
そもそも事件なんて起こっていない。
起こっているかのようにお祭り騒ぎしているのは周りだけだ。
いや、周りだって起こっていないのに、起こっているかのように錯覚しているだけなのだ。

だからテーマも何もない。

なぜこのような映画を、そう、語り尽くされているような一昔前のお金持ちの凋落を描いた映画を、いまさら映画化したのだろうか。
リーマンショックでまだまだ立ち直りきっていないアメリカなのに?
(少なくとも一般市民はまだまだ汲々としているだろう)
最後に性懲りもなく再びいかがわしい商売を続けているという結末しか与えないのに?
そんな社会的な視座さえもない。

だから疲れるのだ、この映画は。
何もないものを延々と見せられてづけて、結局話は「ごめん、特に何もないねんけど」という話し下手な人の雑談のようなまま映画館は明るくなってしまう。
なぜかって?
アメリカはそういう何でもないものに巨額のお金を投資して、有名俳優と有名監督に撮らせる、そういう国だからだ。
結局中身がないのはこの映画も同じなのだ。

必要性があるから投資する?
(必要性があるから映画を作る?)
違うよ、ただ投資するために投資するんだよ。
(違うよ、ただ作るから作るんだよ。)

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