secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

アイアンマン(V)

2010-02-07 08:29:08 | 映画(あ)
評価点:78点/2008年/アメリカ

監督: ジョン・ファヴロー

これは「バットマン ビギンズ」と同工異曲か。

死の商人で大富豪のトニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr.)は、新兵器の売り込みのために戦争真っ最中のアフガンに乗り込む。
しかし、移動中にテロリストに拉致されて、新兵器ジェリコを開発するように命じられる。
死を覚悟したスタークだが、同じように拉致されたという白人のインセンに励まされて、指示された兵器とは違うバトルスーツを開発する。
熱プラズマ反応炉を小型化したその新兵器によって、脱出した彼は、帰国後すぐに報道陣の前で兵器部門の凍結を発表する。
副社長で、先代から支えてきたオバディア・ステインは、激しく動揺するが…。

マーヴルコミックスのヒーローもの。
主人公はあの「トロピック・サンダー」のロバート・ダウニー・Jr.。
先にこちらを観ていたので、アイアンマンになったロバート・ダウニー・Jr.は笑えてしまう。

話の筋は大変わかりやすく、お手軽なヒーローだ。
ウォッチメン」や「ダークナイト」といった重たいヒーローが現代の主流になりつつあるが、こちらは見やすいだろう。
だから、物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、次回作の公開も決定しており、アメリカ人には受けているようだ。
そこにスカーレット・ヨハンソンが出演するので、僕としては一作目も観ないわけにはいかないわけだ。

▼以下はネタバレあり▼

どうしても「バットマン ビギンズ」とかぶってしまう印象を受けてしまう。
どちらも、往来の物語構造を持っており、アメリカ(ゴッサムシティ)―異国―アメリカという構造をもっている。
しかも、その行った先で自分の生き方を見いだして、ヒーローとなるという展開までまったく同じだ。
トニーは大富豪で、これもブルース・ウェインと同じ設定だ。
街を動かしているバットマンに対して、トニーは国を動かしている。
二人とも、社会貢献に目覚めてヒーローとして活躍する…。
ここまで共通していると、原作がなければ、ほとんどぱくりではないかと勘ぐってしまう。
しかし、この映画には大きな隔たりがある。

あまりに似ているこの二つの作品をちょっと批評としてはずるいけれども、「バットマン ビギンズ」との比較によってこの映画を暴いてみよう。
以下は「バットマン ビギンズ」「ダークナイト」のネタバレも含んでいる。
観ていない人は読まないことをおすすめする。

往来のこの映画は、文字通り帰国すると変身して還ってくる。
それまでは、いい加減で女ったらし、死の商人であることを公言してはばからないという不遜な男だったトニーが、拉致事件に巻き込まれることで、企業としての責任、会長としての責任に目覚める。
アイアンマンになったというだけではなく、トニー自身の内面も変化する。
この映画が観客を置いてけぼりにしていないのは、その点にある。
また、アイアンマンの説明も、わかりにくいが、きちんとしている。
そして、その開発シーンが非常におもしろい。
ヒーローをブラックボックス化せずに、きちんとその仕組みを描いたことで、憧れを抱くことができる。
この映画の魅力の半分以上は、実際に彼が活躍するシーンではなく、パワースーツを開発するシーンにある。
何度も何度も失敗しては改良していくその姿は、どこか民衆の泥臭さを思わせる。
大富豪だった彼が、初めて他人のために自分の努力をするという点に、共感を得るのだろう。

開発してからはとんとん拍子に悪玉との対決へと展開する。
スーツの問題じゃなくて、そんな高度から落ちたら死ぬやろ、という突っ込みをぐっとこらえて活躍する姿はまさにアメコミのヒーロー像そのものである。
あまりかっこいいとは思えないカラーリングも、開発段階から知っている観客にとっては違和感がないから不思議である。

こうした一連のトニーの活躍に、ブルース・ウェインにあった悲壮感は、全くない。
この映画がクリストファー・ノーランの「バットマン」シリーズと全く違う点はラストにある。
アイアンマンの真相を尋ねようとする記者団に対して、トニーはさんざん忠告されていたにもかかわらず、「アイアンマンは、俺だ!」とあっさり告白してしまう。
ここにはクリスチャン・ベールにあった悲壮感はない。
ダークナイト」であれだけ公表するかどうかで煩悶していたブルース・ウェインとは全然違う。
このシーンにこそ、この映画のオリジナリティがあるのである。

「ダークナイト」はヒーローの理想を描いていた。
もっとはっきり言えば、アメリカの、世界へ果たすべき在るべき姿を描いていた。
「ダークナイト」でラストで宣言したことも、「ビギンズ」で「礼は要らない」とあっさり言ってのけるバットマンは、ヒーローとしてのアメリカの理想だ。
「アイアンマン」は違う。
「俺がヒーローだけど、そのことをもっと認めてくれよ」というアメリカ人の本音が見え隠れする。
アメリカ人へ「ヒーローはこうあるべきだ」と示すバットマンに対して、「俺たちみんなヒーローだぜ」とアメリカ人のアイデンティティを代弁しているのがアイアンマンだ。

だから対峙するべき敵が常にバットマンでは民衆が含まれている。
民衆がガスで暴徒化したり、ジョーカーに恐怖と悪意を試されたりと、民衆はバットマンを苦しめる。
それでもバットマンは民衆たちを信じて、正しい方向へ導こうと身を削る。

アイアンマンの敵も組織の内部にいる。
しかし、完全に善悪を切り離してしまうアイアンマンは、民衆にとって自分たちそのものである。
悪いのは自分かもしれない、という反省の視点はない。
決意を促すバットマンとは違い、自分たちはヒーローなんだからほめられるべきだ、正しいことをしよう、というメッセージがある。

そもそも武器商人であるという設定や、そこから立ち直ろうとする姿も、まさにアメリカそのものである。
新しい兵器を開発すれば人々は救えるのだというテーゼは、実は何も変わっていない。
ヒーローであることを国際社会(記者団)に堂々と発表する姿は、国連でイニシアティブを執ろうとするアメリカそのものだし、それを理解されなくとも続けようとするトニーは孤高のヒーローに他ならない。
その意味では「バットマン」よりも、現状維持を望んだお気楽映画に見えてしまうのは無理もない。
この映画に人々を導こうというような高尚な考えはない。

秘書ペッパー(グウィネス・パルトロウ)との熱烈な愛や、開いた天井をふさぐこともせずにそこから飛び立っていくなど、全体的に軽いノリだ。

おっと、だからおもしろくないというのは性急な結論だ。
紛れもなくアメリカ映画であるこの作品は、お気楽であるが故におもしろいのである。
「俺がヒーローだけど、何か?」と一度言ってみたいのは誰もが思うことではないか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アクセス解析はじめます。 | トップ | 井上雄彦最後のマンガ展 »

コメントを投稿

映画(あ)」カテゴリの最新記事