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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スクール・オブ・ロック

2008-11-04 20:27:28 | 映画(さ)
評価点:78点/2003年/アメリカ

監督:リチャード・リンクレイター

夢を捨てきれないロッカーが、名門の私立小学校にロックを教える?!

デューイ(ジャック・ブラック)は、バンドのギタリスト。
しかし、売れないのは太っているデューイのせいだと考えたバンドのメンバーたちは、新しいギタリストのスパイダーを加入させる。
家賃を滞納し続けていたデューイは、なんとかお金を得なければならない。
苦悩するデューイの下に、管理人のネッド宛てに、代用教員の申し出の電話がかかってくる。
既に代用教員についていたネッドに成りすまし、デューイは教師として学校に潜入することに。
全ての授業を「休憩」としていた「S先生」だったが、音楽室の児童の楽器を弾く姿を見て、ロックを教えようとたくらむ。

この映画の主演ジャック・ブラックといえば、ブルース・ウィリスの「ジャッカル」で無残にも腕を吹っ飛ばされてしまう可哀相な役者、というイメージだったが、この映画のジャックはすごい。
「天使にラブソングを…」や「ミュージック・オブ・ハート」などの子供に音楽を教える、という映画は結構あるが、この映画もその代表的な作品の一つになるのではないだろうか。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は先ほどに挙げたような音楽モノの基本を踏襲しているといえる。
音楽(ロック)のすばらしさを伝える、それがこの映画の第一義である。
「ロックは抵抗である。」というデューイの哲学に基づき、名門校の子ども達に「大人への反抗」を教える。
(もしかしたら教育学者の「デューイ」の名前を使うことでその共通性とギャップを楽しんでいるのかもしれない。)
そのギャップが最高に笑える。
もともと落ちこぼれのデューイにとって、学校の授業など教えられるわけがない。
「ずっと休憩だ」という台詞の通り、彼には教科を教える気がない。
そんな中、児童たちの才能溢れる演奏を聴いて、クラスでロック・バンドを作ろう、という発想がすごい。

しかし、その彼のアイデアは、しっかり教育者としての基本をわきまえている。
メンバーに入れなかった子ども達には裏方という重要な役職を与え、クラス全てに役割を割り振る。
そして、バックコーラスのトミカが、笑われるのを恐れたとき、必死で説得し自信を持たせる。
また、ギタリストのザックが親に叱られている様子を見たデューイは、すかさず勇気付けるように彼を乗せる。
正体がばれたときも、素直に謝り教師と児童が「対等」であることを教える。
子どもの様子をきちんと向き合い、見定め、そして彼ら一人一人の個性を重要視して、
クラスの中での居場所(役割)を確保する。
これは正に教育の基本であり、そんな彼はロックを語りながら、紛れもなく、「教育」を行なっていたのである。
だから笑いの中にも、勇気や友情など、様々なことを教えてくれる。
ロックを楽しむ事によって、ロックを知り、そしてそれがいい意味で教育的であるために、説得力が生まれる。
そうして、観客と子どもたちは、ロックの力強さにじかに触れることになるのである。

ハチャメチャをやりながら、それでも安心して楽しめるのは、そういう理由がある。
展開がありきたりなのも、先を気にすることなくその痛快な世界に浸ることができるという安心感を生む。
コメディ映画に欠かせないものの一つが、この展開のありきたりさなのである。

しかし不満な点もある。
それは名門校への偏見と、「努力」の欠如である。
名門校とロックというギャップは確かに面白い。
しかし、名門校の子どもたちが「頭ボンヤリ」で、親から押し付けられている、という描き方は偏見に満ちていると思う。
もちろん、中にはそんな子どもたちもいる。
どこまでも「やらされている」子どもたちはいるだろう。
しかし、彼らだってどこまでも受身というわけではない。
それはある種の偏見だと思う。
偏差値がいいこと=人間的に完成されている、というわけでは決してない。
しかし、偏差値がいいこと=人生の楽しみを知らない、あるいは、盲目的で自主性がない、という構図は安易過ぎる。
ステレオ・タイプ化すると描きやすくなるが、その点はもうすこし配慮してほしかった。

もっと不満な点は「努力」の欠如である。
スクール・オブ・ロックのクラスに圧倒的に欠けているもの。
それは「努力」である。
逆に言えば、「才能」重視ということである。
彼らは、バンドを組む前から「出来る」のである。
ギターを弾けるし、歌を歌える。
ドラムもある程度叩けるし、ピアノを弾くこともできる。
要するに、S先生が教えたのは、ロック流の弾き方、叩き方、歌い方であって、演奏そのものではない。
ロックとは何か、抵抗する事とは何か、何のために努力するのか、という点は大いに学んだ。
しかし、下手→上手という向上は全然ない。
彼らはもともと「出来る」からだ。

「ミュージック・オブ・ハート」にしても、「天使にラブソングを…」にしても、上手になる、という努力をきっちりと描いている。
苦悩する子どもたちの姿が丁寧に描かれている。
だから、カタルシスも大きく、観客に訴えかけるパワーも大きい。
しかし、本作では、子どもたちはもともと「出来る」のである。
デューイは、出来ない子どもたちを出来るようにしたのではない。
出来る子どもたちに、「本気になれば出来る」ということを教えたのである。
だから、面白いがこちら側(観客)に与える影響力、説得力は大きくない。
むしろ、「才能が全て。後はそれをどう活かすか、どう住み分けるかだよ」という超現実的な、超合理的な考え方が見える気さえする。
おいおい、それじゃあ「大物(ザ・マン)」と同じじゃないか。

だから、もっと苦悩する子どもたちの、迷いながらも必死になる子どもたちの、必死に努力する子どもたちの姿を描くべきだったのである。
そうすれば、カタルシスも大きくなり、ロックのすばらしさに厚みが増した。
なにより観客に、「努力すれば僕(私)にもできるんだ」と思わせることができたはずだ。

面白い映画であるからこそ、その点が非常に残念だった。

(2004/5/17執筆)

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