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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

GODZILLA ゴジラ

2014-08-24 20:36:31 | 映画(か)
評価点:63点/2014年/アメリカ/123分

監督:ギャレス・エドワーズ

新しさがない。

1999年フィリピンで古代生物が見つかる。
調査に訪れた芹沢博士(渡辺謙)だったが、化石化された生物は見つからず、海に逃げたような後だけがあった。
同じ頃、日本では原子力発電所に勤務していたジョー・ブロディ(ブライアン・クランストン)博士は一定のリズムで電磁波が発生していることに気づき危険を察知する。
まもなく原子力発電所は大規模な事故を起こし、妻のサンドラは閉じ込められてしまい命を落とす。
2014年、海軍の任務を終えたジョーの息子フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は父親が日本で逮捕されたことを聞きつける。
仕方なく日本へ向かうと、ジョーは未だに発電所の事故が何かの陰謀であると執着していた。
辟易していたフォードだが、父親のいうままに禁止区域に入ると不自然な点がいくつか見つかる。

言うまでもない日本の怪獣映画「ゴジラ」のハリウッド映画化第二弾である。
第一弾は、ローランド・エメリッヒが原作無視の恐竜映画にしてしまったことでも話題になった。
また、L’Arc-en-Cielの楽曲が密かに使われたことでも話題になった。
それはともかく、見に行った映画ファンは、「なんだこれ、ゴジラらしくないじゃん」とがっくりしたのは言うまでもない。
そして、見事に邦画のゴジラも封印されたのだ。

しかし、今回、復活版として再びハリウッドで映画化されることになった。
今回は版権を持つ東宝スタッフもかなり気を遣ったようだ。
アメリカでも日本ゴジラを理解してくれる人を探して、監督に起用するなど、日本のゴジラを意識している。
この「ゴジラ」はアメリカでも既に公開され、一つの結果を出したとのことだ。
渡辺謙まで起用して、日本を舞台にしたシーンも用意した。
これでどうだと言わんばかりの気の入りようだが、果たして。
ちなみに私は時間の都合上、2D版字幕をみた。あしからず。

▼以下はネタバレあり▼

パンフレットに載っているゴジラのシリーズを見てみると、「ビオランテ」から「2000年版ゴジラ」まで実に8本も映画館で鑑賞していることが判明した。
いや、怖いくらいだ。
まさかそこまで足繁く「ゴジラ」のために映画館に通っていたとは驚きである。
そんな私から言えば、今回のハリウッド版ゴジラは「古い」という印象を受けてしまう。

たくさんゴジラを見ていたからといって、私はそれほどゴジラに強い衝撃を受けた覚えはない。
おもしろいとは思いながらも、定番をみるように、半ば「水戸黄門」をみるように、「ゴジラ」をみていたような気がする。
そう考えると、この映画もまた定番をみるような安定感はあるものの、「ゴジラ」の哲学が反映されているかと言えばそうではない気がする。
その点でこの映画はいかにも中途半端で物足りない。
だからこの映画を肯定する人と否定する人で真っ向から対立しそうな映画とも言える。
よく言えば無難。
悪く言えば陳腐。
そんな印象を受けてしまった。

どんなシリーズ映画も、大切なことは「定番を守る」ことではない。
定番でありながら、新しい何かを描かなければそれは陳腐と言うことであり、同工異曲であり、新たに映画として劇場で公開する意味を失う。
ノーランの「バットマン」が衝撃的だったのは、定番だったからではない。
今の時代に合うように新しい知見を与えてくれたからだ。
同じように「ゴジラ」も定番でありながら、それがそのまま以前までのゴジラであるならば、それは焼き直しでしかない。
リメイクといってもいい。
それではいかにも物足りないし、ファンの慰みものになってしまう。
それで本当に新たなファンや「ゴジラ」らしさを訴えることが出来るのだろうか。

その意味ではこの映画は教科書通りの演出で、教科書通りの設定に過ぎない。
核を原因とするゴジラの成立や、ゴジラと対峙する者(ムートー)がいること、徹底して人間の目線から彼らを描こうとする点など、随所にゴジラらしさがある。
だから今までゴジラで育った人間にとっては違和感なく楽しめることだろう。
ただ教科書通りに辿ったわけでもない。
最初に妻のサンドラが亡くなるシークエンスでは東日本大震災による福島の原発事故を彷彿とさせる。
そこに陰謀が隠されているという発想はこれまでの「ゴジラ」シリーズをなぞったものだが、明らかに時事問題を意識している。
また、沿岸部をおそう場面では、これまた日本がおそわれた津波を意識していると思われるシーンをあえて入れている。
このあたりはいかにも時事的な新しさを意識している。

アングルも3Dを意識したものになっている。
奥行きを感じさせるアングルやカメラワークで、現状のCG技術をふんだんに盛り込もうとしている気概が表れている。
(そのわりに、人間からのアングルを多用しているわりに、焦点化される人物が少なく、ゴジラの怖さが伝わらない。
だから中途半端で、なんだかゴジラの存在感が浮いているのもマイナスだ。)

だから決して古いわけではない。
楽しめないわけでもない。
これが1998年版の「GODZILLA」であれば納得しただろう。
きっと驚いただろうし、感動もしたかもしれない。
だが、すでに「ゴジラ」という単語自体が懐かしくなりつつある。
そんな満を持して公開される作品としては弱すぎる。
ノスタルジーに浸りたい東宝関係者はそれでよかったかもしれない。
だが、これからシリーズ化をめざし、新たな「ゴジラ」を見せるという点では弱すぎるのだ。

核兵器や核技術の在り方がすでに変わってしまった。
核はもはや大国だけがもつ技術ではなくなった。
それは核エネルギーという点でも同じだ。
それならば、もっとそういう視点を入れた上で「ゴジラ」を描くべきだった。
たとえばムートーが産まれたきっかけを、イラクやイラン、北朝鮮などの核兵器新興国から描いたり、巨大なゴジラに対して小さな敵を複数用意したり、もっと暗喩的に時事を扱うことは出来たのではないか。
しかしそれすら生ぬるい。
やはり私たちに新しいゴジラ像、怪獣像を見せてくれなければ、「ゴジラ」復活の意義は弱い。

シリーズ化される作品は定番だから楽しいのではない。
安心するために観る映画は、「寅さん」で十分だ。
そうではないところにおもしろさがあるからこそ、ハリウッドでも通用するのだろう。
その点をもっと昇華させて、シリーズを大事にしてほしい。

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