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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

バーン・アフター・リーディング

2009-05-10 17:06:00 | 映画(は)
評価点:57点/2008年/アメリカ

監督:コーウェン兄弟

情報、アル中、不倫……アメリカの現状を示した象徴的な作品。

ダンディな男と不倫中の外科医ケイティ(ティルダ・スウィントン)は、CIA局員の夫オズボーン(ジョン・マルコヴィッチ)と離婚するために、夫のコンピューターにあるデータをCDにコピーした。
しかし、弁護士に渡す段階で、そのCDがスポーツジムの更衣室に忘れてしまった。
スポーツジムで働くチャド(ブラッド・ピット)とリンダ・リツキ(フランシス・マクドーマンド)は、そのデータがCIAの重要機密であると気づき、持ち主であるケイティの夫・オズボーンに強請を持ちかける。
いわれのない強請に屈しないオズボーンに、二人はロシア大使館にそのデータを売り込もうと考えるが…。

07年度のオスカー作品賞「ノーカントリー」の監督であるコーウェン兄弟の最新作。
オスカーを取ったのとは、うってかわって、こちらは痛快クライム・コメディだ。
痛快かどうかは個人差があるだろうが、キャスティングと監督名だけで観に行くと大変なことになることは間違いない。
特にブラッド・ピット = イケメン、という程度の人にとっては、たぶん痛い目に遭うことになるだろう。
「オーシャンズ11」の時もそうだったが、人気先行だけで映画を選ぶな、ということかもしれない。

ちなみに、僕が観た祝日の日は、レディースデイということもあり、ほぼ満員だった。
同じ日に観た「グラン・トリノ」は半分ほどだったので、観客の関心は、こちらの方が高かったようだ。

▼以下はネタバレあり▼

僕はコーウェン兄弟の作品をほとんど観ていない。
だから、「コーウェンらしい」という表現を使うことはできない。
他のレビューを、観に行く前に少しだけ読んだが、この映画はまさにコーウェンらしいらしい。
早く「赤ちゃん泥棒」くらいは観ないといけないなぁ。

それはさておき、僕としてはこの映画がコーウェンにとって「新しい」のか「ありふれている」のか、判断基準を持っていないと言うことだ。
よって、結果的に、ブラッド・ピット目当てで映画館に足を運んだ人たちと何ら変わりない印象を受けたのだろうと思われる。
僕にとってはピットが単なる「売れる」映画には出ないということは、もはや常識になっているので、そのあたりだけ、がっくり感はなかったのだろう。

さてさて。
前置きが長くなった。
一枚の国家を揺るがすような機密データが満載のCDをめぐるクライム・コメディである。
コメディではあるが、「ゲット・スマート」のようなわかりやすいコメディとは違う。
日本人にとってはどこが笑いどころか、一見つかみにくいようなブラックなコメディである。
コメディとわかっていながらも、笑えなかった、楽しめなかった人は、たぶん正しい反応だった。
僕もそんなに腹を抱えて笑うことはなかった。
ただ、「アメリカらしいなぁ」という少し斜に構えながら観ていた。

アメリカ人もしくはアメリカ在住の人なら、きっとにやりとしたシーンは多いはずだ。
不倫、スポーツジム、美容整形、アル中、CIAの機密CD、不倫調停にその探偵、さらには出会い系サイト。
これだけ並んでいれば、アメリカの現状を憂いないわけにはいかないのだが、この要素を見事に一本化したのが、この映画というわけだ。
タイトルは「CDを読み込んだ後に生まれた作戦(物語)」くらいの意味なのだろう。

スポーツジムで拾った一枚のCDに込められていたCIAのデータを下に、二人の男女が強請を働く。
このあたりまでが予告編の内容だ。
二人が脅迫に失敗するとそのままロシア大使館まで押しかけ、今度は敵国に売ろうというのだ。
中盤以降、この行動から一気に物語は複雑化してしまう。

人物の行く先や状況をすべて解説しているときりがないので、要点だけ書いていこう。
人物たちは、みな自分の望むように動こうとする。
ブラッド・ピットのチャドは楽してお金を得ようと企み、その相棒であるリンダ・リツキ(フランシス・マクドーマンド)は整形すれば人生が変わると信じ込んでいる。
だが、実は彼らは身の丈にあった生活を送っているのであり、十分幸せなのだ。
リンダに至ってはジムのオーナーのリチャード・ジェンキンス扮するテッドが、彼女に惚れている。
いい男ではないのだろうが、目の前に愛してくれる男に気づかない。

不倫中のジョージ・クルーニーのハリー・ファラーは、奥さんを愛しながらも、遊びのセックスに夢中だ。
周りには離婚したいと漏らしながらも、彼は全く離婚する気はない。
ただ、不倫というゲームを楽しみ、女性を抱きたいだけなのだ。
そんな彼も、また離婚調停に持ち込まれようとしていることに気づかない哀れな人間の一人だ。
マルコヴィッチのオズボーン・コックスに至っては、仕事を失うわ、妻と別れるはめになるわ、最悪である。
しかも、彼はほとんど何も知らずに事件に巻き込まれていき、彼自身の意志や意図とは全く関係ないところで絶命する。
哀れ以外の言葉はないだろう。

彼らは今の、あるいは目の前の幸せに没頭していることによって、周りや冷静さ、本当の自分の幸せについて考えていないという不幸がある。
目の前に愛するべき人やものを持ちながら、それでは足りないと言ってどんどん欲を出して動いてしまう。
動いたところで何もならない蜃気楼だったりするから余計に哀れなのだ。
複雑怪奇に見える物語は、実にシンプルな人間の愚かさが招いて引き起こされている。
このあたりが、巧みであり、おもしろさである。
しかもそれが、大物キャストで描かれているところが心憎いのだ。

人間の愚かしいまでの愛憎劇。
けれど、それだけで終わらないのがコーウェン兄弟なのか。
この物語は、観客たちにも投げかけるというメタレベルのフィクション性を持っている。
それがCIA上官のJ・K・シモンズが登場するシークエンスである。
彼とその部下が話をする内容は、まさに僕たち観客が感じる内言そのものである。
彼らはCIA上官という役割でありながら、監督の言葉まで代弁するような強力さをもっている。
彼らはラストでこう話す。

「今回のこの話から何か我々が学んだことは?」
「……」
「何もない。」

こう断言してしまうと、この映画の存在自体を否定していることになる。
それはフィルムという物理的な作品を指しているのではない。
映画という作品空間、つまり観客と制作者、そして作品が生み出しているテクスト空間そのものを否定することになるのだ。
まさにそれはこの映画の登場人物たちと同じだ。
「こんな映画見に来るくらいなら、もっと目の前の人を愛しなさい」という超皮肉が効いたラストになっている。
だから、いかんせん後味が悪い。
小馬鹿にされてしまったかのような、徒労感と疲労感、そして大いなる裏切りを感じてしまう。

それがシャープといえばシャープなのだろうが、う~ん、今ひとつの映画だった。

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