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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

かぞくリスク

2018-09-15 19:00:12 | 毎日コラム
少し前から不倫報道が過熱することで、私たちは「家族」というものについて改めて問い直す必要があることがわかってきた。
他人と他人が一緒に暮らすということが、自由になりすぎた世界でどれほどの必然性と継続性があることなのか。
「きょうだいリスク」ということばも、報道で目にするようになった。
兄弟姉妹が社会的弱者に陥った場合、どこまでその責任を負うべきなのか、というようなことだろう。

私は、この20年ほどでますます家族にのしかかる責任が大きくなってきているように思う。
子どもに対する親の責任、親の介護を子どもがみる責任、きょうだいに対して果たす役割。
多様化するライフスタイルや、価値観を共有できない社会で、どれほどこの家族という単位が社会的な拘束力を持っているのだろう。

家族を大切にする、という考え方に異議を唱えたいのではない。
ここまで家族が責任を負う必然性は、歴史的に見ても特殊ではないかと思うのだ。
夏目漱石は幼少期から里子に出された。
里子という社会的な習わしはそれほど特殊なことではなかった。
だが、今、里子に出すこと、養子に出すこと、それに対する抵抗感は、非常に強いものがあるだろう。
家族がここまで強固なものになったのは、戦中、戦後以降のことだろう。

逆にも言えることだ。
自分の子どもに対して本当に自分の遺伝子を引き継いでいるのかということが、しばしば問題になる。
不倫がこれほど社会的に弾圧されるのも、問題意識は同じ根っこにある気がする。
江戸時代のころ、不倫や姦通は半ば日常的に習慣的に行われていたことだった。
極度な純血主義、純愛主義、家族主義。
それは、大きな物語を失ってしまった現代人が、それでもすがることができる残された「確固たるもの」であるようだ。

これは感情論ではない。
自分の血を継いだ子どもなのかどうか、という点にこだわるのは、親としての感情論ではない。
むしろ、技術が発達して、「わかってしまう」ことで、感情が外部からかき乱されているのだ。

昔が良かったから今でも許される、ということを言いたいのではない。
私たちが確固たるものだと依拠しているものが、じつは、大変特殊で急ごしらえのものであるということに、自覚的にならなければならないということだ。

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