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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

かくかくしかじか

2025-05-31 19:06:49 | 映画(か)
評価点:72点/2025年/日本/126分

監督:関和亮

描くということ。生きるということ。

東村アキコ、宮崎の田舎で幸せに暮らしていた女子高校生は、漫画家になるために美術大学を受験
しようとしていた。
このままで受かるはずがないと同じ美大希望の同級生に言われたことをきっかけに、その友人が通う絵画教室に通うことに決めた。
家から1時間以上の僻地にあったその教室の、日高(大泉洋)先生は、超絶スパルタの異様な先生だった。
あと数ヶ月に迫った受験に向けて、アキコの受験勉強が始まる。

永野芽郁がいろいろな意味で注目されてしまって、この待望の映画化が失敗に終わるかもしれない。
「かくかくしかじか」というエッセイマンガは、何度も映画化を打診して原作者が断ってきたという曰く付きの作品だった。
それが永野芽郁、大泉洋の二人で、しっかりと予算をつけて映画化することになった。

私は奥さんからの課題図書として指定され、この3月に読んだ。
少し前に見たが、実は忙しすぎて記事にできていなかった。
ちょっと思い出しながら書く。

▼以下はネタバレあり▼

概ね原作通りなのは、東村アキコが脚本に関わっているからだろう。
話をスリムにする必要もあるため、原作にあった細かい話は、かなりカットされている。
ギャグ担当は両親に委ねられて、同級生や後輩たちのこぼれ話はかなりカットされた。
大阪教育大学受験に関してもカットされて、映画化に当たっては脚色がかなり加わっている。

こういう話を続けても、脚本の考察にしかならないので、先に進めよう。

画家で、絵画教室の先生でもある日高健三先生と、漫画家になるためになんちゃってで美大を目指そうとする主人公の交流を描いている。
一切妥協しない、スパルタな日高先生は、今では絶滅危惧種となるような暴力教師で、頑固で生徒に合わせるような器量はない。
けれども、熱心で、馬鹿正直で、ほんとうにマンガに出てくるような先生だ。
大泉洋がその雰囲気にあっているかどうかはわからない。
ただ、外見を再現するというより、内面はしっかり「日高先生」だったと私は思っている。

最近、國分功一郎を読んでいる影響もあって、今を生きるということ、退屈を紛らわせるために、退屈を他の誰かに搾取されないために、楽しむということが必要だと、意識するようになっていた。
その中でこの作品を見ていて、日高先生が「描け」と訴えたのは、そういうことだったのではないかと思っていた。

日高先生とはなんだったのか。
なぜ「描け」というあのことばが私たちの心をこんなに穿つのか。
東村アキコは、彼にひたすら描くことを強要される。
それまでのほほんと生活していた状況が一変する。
それは、なんとなくこのままでいい、と流されながら生きていた彼女にとって、地に足をつけて、ほんものを味わって、ひたすら何もない世界に筆を下ろしていくこと。
言ってしまえばありきたりだけれど、「生きる」とはなにかを伝えていたのだろう。

確実に、毎日、無心に、キャンバスに向かうこと。
私たちは日常の外部からの圧力に負けて、言い訳しながら、「生きる」ことを避けている。
生きている自分と向き合うことを忌避している。
人のせいにして、今日は忙しかった、と言いながら、自分の、自分にしか描けない筆の運びを、中断させている。
けれども、生きるとはそういうことではない。
自分の意志で、自分の腕で、筆を運ばねば描けないこと。
信じて突き進む、信じられなくなっても筆を持つ。
それは、生きることそのものだし、生きることの原型なのだろう。

私たちはそれを普段逃げることができてしまっている。
そう、「林明子」がそうだったように。
この物語は、だから林明子が東村アキコになる物語を描いている。
その一方で、私たちが日頃から見失っている、自分の生を生きることを思い出させてくれる。

これをみる観客の誰もが漫画家になろうとしたわけではないだろう。
けれども、誰もが「何かしら」になろうとして、なれなかった人だろう。
そこに特殊すぎる日高先生が、普遍的なメッセージを訴える力強さがある。

ただ、手放しで喜べるほどの作品にならなかったのは、やはり原作に引っ張られすぎているからかもしれない。
それは良さでありながら、けれども、「映画」という表現方法にとってはマイナスだった。
永野芽郁に語らせたいなら、すべてマンガ大賞の授賞式での台詞にしてしまえばよかったし、心根を簡単に吐露してしまうと、やはり話の軽さが際立ってしまう。
実写の語りは、マンガやアニメのそれとは比較にならないほど物語から観客を遠ざける。

その違和感を生み出すくらいなら、「誰かに語る」という形式をとったほうがよかった。

ラストの日高先生との対話も全く蛇足だ。
それが漫画家東村アキコの本音(=現在地)だったとしても、こんな凡庸な、不自然な、そして説教臭い話を入れるくらいなら、もっと間接的に描いても十分伝わったはずだ。
彼女の行動がすべて日高先生への贖罪の意味があった、というようなニュアンスで描けば、全編を通してのユーモラスな軽さが、一気に深化する。
重さと軽さの使い分けが、もっと工夫できたのではないかと残念な気持ちにもなった。
有り体に言えば、凡庸な作品になりさがった。

ふつうにいい話、という作品にするには勿体ない。
結果論だが、不倫騒動があったからこそ、凡庸な作品だとみる価値がないと断罪されてしまう。
事実、私が見に行ったとき、見に来ていたのはほとんどが年配者だった。
あえて語弊がある言い方をすれば、今からの人生を生きる人に、私は見てもらいたかった。

そういう意味でも、ケチがついたのは残念だ。


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