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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ドラゴン・タトゥーの女

2012-02-17 21:33:34 | 映画(た)
評価点:78点/2011年/アメリカ・スウェーデン・イギリス・ドイツ/158分

監督:デヴィッド・フィンチャー

原作の正統的な映画化。けれども、映画としての自立性は低い。

ヘンリック・ヴァンゲルは毎年自分の誕生日に送られてくる押し花を、今年も受け取りため息をついた。
ニュースを騒がせていたのはミカエル・ブルムクヴィスト(ダニエル・グレイグ)だった。
実業家ヴェンネルストレムの武器密輸に関する告発記事を書き、逆に提訴されて、実刑判決を言い渡されたのだ。
彼を調べさせたヘンリックは、弁護士フルーデを通じて失意のミカエルに電話を入れる。
「40年前の事件を調べてほしい。」
ヴェンネルストレムへの証拠を匂わせたヘンリックの提案を受け入れ、ヘーデビー島に留まりながら40年前に失踪したハリエット事件について調べはじめる。

二度目のストーリーにほとんど違いはない。
同じようなストーリーを続けざまに書くのはちょっとしんどい。
それはおいておいて、デヴィッド・フィンチャーのハリウッドリメイクがいよいよ公開された。
僕はサウンド・トラックをすでに購入し、原作を読み、オリジナル映画版を鑑賞するという、前情報たっぷりで映画館に向かった。

だからはっきり言って、映画としての評価を下すことはできない。
この批評はやはり過去の作品を受けての、批評でしかない。
その意味では、全く原作やストーリーを知らない人にとっては役に立たない文章かもしれない。

見に行ったほうがいいか?
その答えは難しい。
だから敢えて言おう。
自分の目で確かめるために、映画館で観よ、と。

▼以下はネタバレあり▼

M4会のメンバーは、次のような構成で観に行った。
原作、オリジナル映画を見たのが僕。
オリジナル映画だけを見た人が一人。
テレビ版の1、2を見た人が一人。
全くストーリーも知らない人が一人。
結局最も高い評価を付けたのが僕で、全くストーリーを知らないで観に行った人の評価はそれほど高くなかった。
この四人だけで言うなら、この映画は映画としての依存性は高くないということだ。
つまり、この映画は少なくとも一定のストーリーを知っている人間に対して作られている映画だということだ。
ベストセラー小説が原作であることもあり、フィンチャーはおそらく物語を丁寧に描くということよりも、再話(リトール)することを意識したのだろう。
その意味で映画としての、単体で勝負できるだけのシナリオや完成度ではないということだ。

僕は映像化したのがオリジナル映画版で、今回のフィンチャー版は映画化したのだという印象を強く持った。
音楽と映像のマッチングがとにかく素晴らしい。
誰もが気づくオープニングのセンス良さはぴかいちだ。
その他のシークエンスでも耳に残る音楽が、画(え)の雰囲気を作っている。
だから僕はとてもおもしろく、都合3回目の物語を楽しむことができた。

シナリオの差異を論うことは辞めておこう。
どうせこのブログでやらなくても、他の人がそういうことは丁寧にやってくれるだろうから。
この物語の主軸は、フィンチャーが言うとおり(パンフレットのインタヴューより)「ミカエルとリスベットの二人の関係」である。
僕の原作のイメージは、ミカエルがエロティックな魅力をもったお馬鹿さんで、リスベットはセクシャルな魅力が一切ないヒーロータイプの切れ者というものだった。
これは訳者も文庫本上巻のあとがきにも記している。
だから、原作のイメージに近い形で物語が切りとられていると感じた。

リスベットは不幸な幼少時代から父親に火をつけて、保護観察処分を受けている。
後見人による面接を定期的に行なうように裁判所命令を受けている。
悪漢の弁護士ビュルマンに執拗に迫られるのは、そのためだ。
彼女は性的には弱い立場にいる。
愛用のマックを地下鉄で破壊されるというような「虐げられた女性」の代表である。
性的な魅力を排した格好をしているのは、自らの身を守るための裏返しかもしれない。
ハリエットの事件に興味を持つのもそのためである。

一方、ミカエルは夫婦関係を不倫によって終わらせたほど性的な魅力に溢れた男である。
リスベットには瞬間記憶能力と抜群の集中力、ハッキング能力があったが、ミカエルは誠実なこと以外に特に取り柄はない。
目の前のことに没頭する力はあるにしても、人より丁寧に仕事が出来るにしても、ただそれだけである。
彼の正義は、女性を女性として扱おうとする真摯さなのだ。
だから、共同編集者のエリカ・ベルジェと長い不倫関係を継続させている。
彼には、女性を虜にする何かがあるのだ。

リスベットが彼に惹かれていくのはそのためだ。
そして彼に近づこうと自分が能動的になった途端、彼の裏切りに触れる。
「娘と週末を過ごす」という言葉を、リスベットは信じ、そして裏切られる。
彼女はそこで、ミカエルとの距離感を知るのだ。
仕事のパートナーでしかない、という距離感を。

物語は実はそれだけだ。
つまりリスベットがミカエルという非日常に触れ、また日常に戻るというパターンなのだ。
ストックホルム(都会)とハーデスタ(田舎)という往来と考えても良い。

この映画があまり面白くない点は、過去と現在の折衝が見えにくいという点だ。
現在についての悪意や現在の二人の関係性などは丁寧に描かれるが、肝心の謎については実にあっさりとしている。
言い方を換えよう。
ハリエットの事件なんてどうでもよいとしか観客に映らない、その程度しか過去の事件の重さを感じられないのだ。
だから、導入部分で謎めいた押し花の学を出しても、真相への興味あるいは恐怖を感じられないのだ。

物語の結末で、事件の真相が暴かれても、ほとんどカタルシスを感じることがない。
なぜなら、過去の事件の真相よりも、現在その事件をどう見るかという超越論的な視点が強いからだ。
要するにミカエルとリスベットという二人の視点が強いために、過去に起こった事件に対する緊急性や切迫感がない。

それはマルティンの悪意がしっかりと描けていないという点とも関係している。
彼が悪の親玉として真の姿を現したとき、彼が帯びている「権威」があまりにも弱い。
だから単なる変態親父程度にしか観客には見えてこない。
ヴァンゲル・グループの現会長であり、大富豪であり、権力者の仮面を被っているという点が強調されないために、そこにあるおぞましい悪について、観客はわかりにくい。
だから、ハリエットが無事だった、生きていた、ということについての安堵感もそれほど感じられない。
物語を全く知らずに観て、この映画が面白くないと感じた人は、ある意味では無理もないのかもしれない。
物語を面白く感じさせる方向性が、期待していることとは違うのだから。

逆にこの物語を何らかの形で知っている人間にとっては、単純に映像と音楽が楽しい。
物語の結末は、予告で言われているほど変更もないし、安心して楽しむことができる。
評価が二分するのは無理もないだろう。
どちらが正しいとか、間違っているとかいうのは寂しい議論だろう。
どちらも正しいし、映画単体としての依存性は高くないことも確かなのだから。

それにしても、なぜモザイクを入れる!?
せっかく美しい男女のやりとりを描いているのに。
あのシーンは、ビュルマンの暴力と対局に位置づけられている。
見えたらあかんものが見えているからモザイク?
なんとも興ざめなことである。
(決して、違う意味で観たかったのではない。決して。)

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