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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

問われる社会的資源~~内在的価値とは。

2021-12-28 08:47:12 | 不定期コラム
何のために生きるのか。
結婚してどんなメリットがあるのか。
子どもなんてお金(コスト)がかかるだけだ。
働かなくてもいいなら、働きたくない。
映画を見る時間がもったいないから、時短で見よう。

私たちはいつの間にか、本来の目的や価値を見失って矛盾にはまり込んでしまうことがよくある。
本末転倒というやつだ。
そのことで、今という時間を見失ってしまったように、私には思える。
いや、私自身もこの現代人の陥穽に気づかずにいた。
私たちが生きづらいと感じてしまう、その内実を少しだけ理解できたような気がするのだ。
だが、それが分かっていたとしてもそこから脱却することは容易ではない。

内在的価値、ということばがある。
あらゆるものやことに対して、価値がある、という言い方は、たいていの場合「○○するのに有効である」とか「○○のためには役に立つ」というような意味で使う。
言い方を変えれば「○○できれば幸せになれる」というような発想も、「○○できないと○○になってしまう」といった考え方も結局は同じ発想だ。

だが、内在的価値は、そういう外部にある何かによらなくても価値がある、と認められる価値のことだ。
わかりやすいものでいえば、命や平和、人権といったところか。
何かの役に立つとかそういう発想に立つ前に、すでに価値を有しているというものだ。

この内在的価値が、揺らいでしまっているということが、私たちに最初に書いたような問いや発想にいざなう原因になってはいないだろうか、というのが私の最近考えていることなのだ。

たとえば、殺人事件や死亡事故が起こったとき、たいていマスコミは被害者の人となりを伝える。
「○○さんはおとなしい性格で、挨拶をしっかりする子どもでした」
「周囲からも好かれて、職場からも信頼されていました」という具合だ。
これが正しいかどうかはどうでも良い。
これらの情報は、被害者の命が尊いものであったという価値を向上させるための情報である。
すなわち、命そのものという内在的価値よりも、「この人は○○に役立つ人間だった」ということを伝えることで、失われた命について強調する情報でしかない。

逆に考えてみれば良い。
「亡くなった○○さんは、粗暴で周囲から孤立し、礼儀も欠いた人だった」という情報は絶対に報道されない。
こちらも情報が正しいかどうかはどうでも良いのはわかるだろう。

これらの報道が支持されるのは、報道のあり方に問題があるからではない。
(むしろ後者の例の報道がされた方が問題がある。)
失われた命に対して、どういう報道がされるべきなのかが、メディアとメディアを受け取る側に暗黙の了解があるからだ。
その根本にあるのは、命にある内在的価値に対する疑義だと私は考える。

有り体に言えば、命に内在的価値を見いだせなくなっている現代人にある、報道のあり方である。
亡くなった命に対して、わざわざそういう報道をする必要すらない。
どんな人であっても、失われるべきではない形で失われたのなら、尊いはず(=内在的価値を有しているはず)だからだ。
それなのに、ことさら生前の被害者のよい面を強調するのは、内在的価値が揺らいでいる何よりの証左であろう。

私たちはそもそも、そのものの価値を説明する言説を過度に要求する思考に絡め取られている。
なぜ○○するのか、なぜ○○してはいけないのか、という問いはその代表的な例だ。

デカルトは「我思う故に我あり」と言い残し、疑うことの重要性を唱えた。
だが、デカルトがそれでも「疑う我」を見失わなかったのは、神という絶対的な内在的価値を有するものの存在が後ろ盾にあったからだ。
常識を疑うことを否定するわけではない。
疑えば良い。
だが、世の中には疑えない、説明することが困難なものも存在する。
それが内在的価値を有しているものだ。

なぜ映画を見るのだろう。
私は見ている時間がこのうえなく楽しいからだ。
駄作であろうと、名作であろうとあまりそこに差異はない。
私はその時間そのものを楽しむ、という内在的価値を疑えない。
疑えない、といえば語弊があるかもしれない。
疑う意味がない。
「楽しいから楽しい」としか言いようのないものがこの世界には存在する。

それを経済学的な見知から説明されても、それは理由にはならない。
ストーリーが知りたいから、映画を見るのではない。
役者が好きだから映画を見るのなら、映画でなくてもよい。
何かのために、という説明自体が困難だ。

私たちはこの、内在的価値を徹底的に疑う、という発想を貫き続けてきた。
その結果、なぜ生きているのか説明できない、という事態に直面している。
まるで、何かのために、何かを成さなければ人生に意味がないかのような問いである。
だが、人は何のために生きているのかを、生きている今まさに説明することは難しい。
それは死の直前か、死を目の前にしてしか説明することはできない。
場合によっては、死後かもしれない。
いや、それを説明することさえ難しい人生もきっとある。

だが、説明できるかどうかで、その人の人生の価値を計ることはできない。
説明するかどうかなんて、内在的価値を有している人生において重要なことではないからだ。

そして、その内在的価値について疑えないという感覚を持っているのは、おそらく生きている人間だけだ。
AIにそのことを説明したり、理解させたりすることはできない。
それが理解できるAIが登場すれば、おそらく人間と全く区別が付かない人工知能になるだろう。

バブルが崩壊した頃だろうか。
現代人は「大きな物語」を失ってしまったと多くの思想家が口にしたという。
だが、もしかしたら大きな物語を失ったのではなく、内在的価値を信じることができなくなってきたのではないだろうか。
それは、誰かに保証された、説明された、証明されたもの以外信じることができなくなったことを示している。
結婚も、仕事も、出産も、あらゆることが何かによって保証されていなければ、そこに価値を見いだせなくなった。
子どもを産み、育てるということについて、お金と相談するというのは大きな転倒だ。
それは自らの人生をお金に換算できると考えているということに他ならない。

もちろん、だから子どもをもうけるべきだとは言うつもりはない。
一人や二人だけの生活に内在的価値を見出すのは当然の発想だ。
問題は、「お金がかかるから子どもなんてとんでもない」という発想が転倒しているのだ。

繰り返すようだが、私が問題にしたいのは、制度の問題ではない。
北欧の方が社会保障制度が整っているとか、そういう議論をしたいのではない。
私たちに蔓延している、内在的価値を疑う発想のほうだ。

数値や技術によって測れるのは、内在的価値ではない。
その人の行動をセンサーやカメラで測れたとしても、その人が「人生を生きている」こととなんら関係はない。
優れた技術があればあるほど、私たちは内在的価値を見失いつつある。

すべてを外部化したところに果たして価値など生まれうるのだろうか。
ゆえに、生きづらさということは、おそらく今後もっと深刻なテーマになるのは間違いないだろう。


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