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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

メアリー&マックス(V)

2012-02-20 22:17:32 | 映画(ま)
評価点:83点/2009年/オーストラリア/88分

監督・脚本:アダム・エリオット

見終わって、しばらく経ってから、また味わえる映画。

オーストラリア・メルボルンに住む9歳のメアリー(声:ベタニー・ホイットモワ)は、泥の水たまりの色をした目をもち、額にはウンコを落としたようなアザがあった。
彼女の母親はキッチンドリンカーで、いつも酩酊していた。
彼女には友達がいなかった。
彼女は友達がほしいと、アメリカのニューヨークの電話帳からマックスという人に宛てて手紙を書いた。
マックス(声:フィリップ・シーモア・ホフマン)はニューヨークで一人寂しく暮らしていた。
彼はタバコの煙が苦手で、やたらと太っていた。
過食症の彼はカウンセラーを受けていたが、チョコを挟んだチョコドッグを辞めることができない。
ある日、彼の元に、オーストラリアのメアリーから手紙が届くのだが…。

これもM4会のメンバーに勧められて観た映画。
88分という短い上映時間と、人形劇(クレイアニメ)という可愛らしい絵柄から、見やすいだろうと思って観た。
ところがどっこい、全くもって忍耐力の要る映画だった。
観るなら覚悟して観て欲しい。
けれども、とても良い映画だ。
ただし、「甘くない」。
まったく「甘くない」。

この映画は実話に基づいている。
実話かどうかはほとんどレトリックだと思っている僕にとってはだから感慨深くなることはない。
けれども、この映画は人形劇である。
人形劇のコミカルな動きと、実話であるという重みを、じっくり味わって欲しい。

▼以下はネタバレあり▼

自閉症という言葉は、もう随分前から映画のモティーフになっている。
しかし、アスペルガー症候群という病は、それほど市民権を得ているとは思えない。
少なくとも、僕の子どもの時に、アスペルガー症候群という言葉を耳にすることはなかったように思う。
この映画は1970年代後半からの話だ。
この時代のアメリカとしても、アスペルガーという病気はおそらくそれほど身近なものではなかったと想像する。

この物語のかなり中心の部分に、このアスペルガーという病気がある。
マックスはこの病気が理解されにくい事に苦慮し、メアリーはその解決をなんとか進めようと努力する。
だからといって、この映画はアスペルガー症候群にある人に対する同情で終わらせるような物語になっていない。
むしろ、もっと普遍的なテーマがモティーフとなっている。
それはいかにもアメリカらしい「親族は選べないが、友達は選ぶことができる」というものだ。
血縁や歴史を強く意識するヨーロッパに対し、歴史のないアメリカは社会性や友情を重んじる。
その延長上にこの映画のテーマをみることができる。

メアリーのとりまく環境は苛酷だ。
母親はキッチンドリンカーで慢性的なアルコール中毒。
そして万引きが常習化していた。
気に入らないことがあれば、娘に当たり、娘はその状況をよくわからないまま育っていく。
彼女は自分の容姿にも自信がない。
泥の水溜りのようなグレーの瞳に、ウンコのような額のしみ。
内向的な彼女の友達はみすぼらしいニワトリだけだった。

その文通相手となるマックスは、過食症で食事制限が必要なほど肥満している。
彼にも友達はいない。
仕事を転々としているが、その理由はやはりアスペルガー症候群である。
一つのことに集中するのはできても、それが複数の要素が絡んだり、イレギュラーがおこったりすると彼は対応できない。

また、この映画では発達障害と自閉症とともに並列で描かれていたが、本当はもっと細かい差異がある。
僕は本格的に学んだ経験がないので、常識の範囲内でしか知らないが、アスペルガー症候群には低学力などの知的な障害はない。
アスペルガー症候群は、ソーシャルスキルが著しく低いという特徴がある。
「空気を読む」ことができない。
ことばを言葉どおりに受け取ってしまうので、「この椅子を自由に使って下さい」といわれるとそのまま電車まで持ち込んでしまう。
劇中にはそういう描写があったはずだ。
タバコのポイ捨てについてやたらと固執していたのも、その特徴のひとつだ。
「チョコ・ドッグ」を辞められないのは、身体的な固執があるからだろう。
だから精神的なストレスなどの外的な要因だけではなく、アスペルガー症候群からくる過食症と考えるべきだろう。

今ではその対処方法はかなり確立されつつある。
薬物治療は適さないなど、現在とこの映画の舞台となっている時代とは差異がある。
だから悲劇が起こってしまう。
メアリーは彼を治すために、大学で研究成果を発表し、それが評価される。
研究対象はマックス。
マックスにはそれが耐えられない。
研究対象として扱われたマックスは、信じていた友情を裏切られたとしか受け取れないからだ。
メアリーとマックスはともに友人がいないという共通点があっても、メアリーとマックスは見えていたものが決定的に違っていたのだ。

ショックを受けるメアリーは、広所恐怖症に挑戦し続けてきた隣人によって救われる。
彼女は知るのである。
どんな困難があっても、挑戦し続けることが重要であることを。
だから、メアリーは再びマックスとの直接会うことを志すのである。

メアリーとマックス、この二人の友情は単なる美談ではない。
そこには社会的な様々な問題をはらみながら、二人の人生と交流がある。
二人はお互いが遠い場所にいながら、それでも支えあいながら信じあいながら生きてきた。
その重さは、人形劇という表現の軽さによって逆説的に表現されている。
人生は悲劇であり、喜劇である。
そのことを同時に描いたこの映画は本当に素晴らしい。

悲しみに溢れた物語には、いつもどこか笑いがあった。
それは嘲笑ではない。
どんな人間にも共通する、喜劇である。
それはこの二人には、ふさわしい表現方法であったのだろう。

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