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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

フェイブルマンズ

2023-03-09 18:21:47 | 映画(は)
評価点:73点/2022年/アメリカ/151分

監督:スティーブン・スピルバーグ

真実を描き出す装置。

第二次世界大戦後、ユダヤ人の両親をもつサム・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、初めて映画館に連れて行かれた。
大画面の大音量の映画館で繰り広げられる世界に魅了され、自分でも映画作りをしたいとおもうようになった。
映画作りに熱中する息子を持て余していたが、父親の仕事が評価されフロリダに移住することになる。
ますます映画作りに没頭するサミーだったが、ある日母親ミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)の母が亡くなってしまう。
鬱のような症状になった妻を心配したバート(ポール・ダノ)が、息子に最新の編集機器を与えて、家族の映画を作るように指示する。

スピルバーグ監督の、自伝的な作品。
アカデミー賞の有力作品だという話を聞いたのもあって、見に行くことにした。
同じような映画なら「ニュー・シネマ・パラダイス」などを思い出させる。

だが、そういう感動的な話を期待していくと、ちょっと面を食らうかもしれない。
というのは、タイトル「フェイブルマン」とは寓意という意味で、わかりやすい単純な話でもないからだ。
そして、映画人としての自伝というよりは、家族の物語になっている。

感動するため、泣くために映画館に行こうとすればきっと肩透かしを食らうだろう。
どちらかというと映画が長年好きな人向けの映画だ。
キャッチーな映画を期待して、年に一度くらいしか映画を見ない人にはちょっとわかりにくい表現になっている。

もちろん、スピルバーグにこれまで憧れてきた人なら、きっと楽しめるだろう。
とてもおしゃれで知的な表現である。

▼以下はネタバレあり▼

映画制作を映画にするということは、すなわち入れ子型構造になるメタフィクションにであるということだ。
小説を書く小説、マンガを描くマンガ、描いている姿を描く絵画。
こういう作品は、作品の内側にも作品があるという二重になっている。
こういうのをメタフィクションと呼ぶ。

映画監督になった自伝的作品であるということは、映画を作る自分を描く映画であり、入れ子型構造になっているわけだ。
私は、感動的な制作秘話を期待していたが、そういうわかりやすいありきたりな映画になっていない。
むしろ先にも書いたように、家族の物語だ。
サム・フェイブルマンを視点人物とした、フェイブルマン一家の姿を描いている。
特に、母親との関係性が中心となっている。
その中でいかに映画監督として目覚めていくかということを描いている。
フェイブルマンズ、と複数形になっているのは家族を描こうとしているからである。

テーマは、映画が何を描き出すのか、ということだ。
このテーマは劇中でも非常にパワフルに、そして一貫して描かれている。
わかりやすいのはやはり母親である。

母親は自由奔放で、芸術家である。
ピアノを育児のために諦めていたが、それでも作曲を続けている。
また、夫を強く愛しながら、それでも夫の友人であるベニーに想いを寄せている。

この映画のおもしろさは、母親が映画を通してそれらに気づいていくということだ。
母親は最初からベニーに恋心を抱いていたわけではない。
サムに映画として二人の様子を切り取られた「映画」を見せられることで、自分の恋心に気づくのだ。
映画が真実を浮かび上がらせて、それに出ていた人が気づかされる。
恋心が全くなかったわけではないだろう。
しかし、客観的に、映像としてそれを見せられたとき、彼女はベニーへの恋心を捨て去ることができないほど囚われてしまう。

映画は真実を浮かび上がらせる装置なのだ。

もう一人、いじめっ子であるローガンの独白も同じだ。
サムは彼を英雄的に描くことで、ローガンの中にあるヒロイックな部分を見つける。
しかし、それを見たローガンは、サムの意に反して、激高する。
彼は自分をヒロイックに描いた作品を見たとき、そうではない自分が描き出されたことに気づいたのだ。
自分は英雄でも自信家でも、周りから慕われるようなやつじゃない。
それをただ表層的に演じているだけの臆病者だ。
そのことを映画を見ることで気づかされる。

それは彼にとってのつらい真実であり、それをサムに見透かされたと感じたのだ。

映画は真実を描き出す装置である。

だが、当然それを映画にしているサム自身もまた映画によって真実をあぶり出されていく人物である。
彼は映画に携わっていくことで、その魅力に囚われていく。
成績は下がり、進学や進級を諦めるほどになる。
サムは映画に携われば携わるほど、自分にはこれしかない、という意志を強固にしていく。

叔父が彼に向かって「家族と芸術に引き裂かれるときが来る」と予言めいたことを言う。
それが分かっていながら、それでも映画を捨てることができない。
それは映画が真実を描き出す装置であるからだ。
彼もまた、映画を作ることを描く映画を撮られる側の人間である。
この映画は初めから入れ子型構造なのだから。

それを示すのが最後のカットだ。
フォード監督(演じているのはデビット・リンチ監督!)から「地平線が真ん中の映画はひどくつまらない」という忠告を受ける。
それを知ったサムは、ラストで自分が映画業界で歩き出す姿を、あえて真ん中の地平線で撮り、それを「地平線を移動させる」カメラワークで「面白い映画」に仕立てる。
彼自身もまた映画という作品の一部である、ということを観客に印象づける。
そこで純真無垢に、一生懸命に、映画に向き合ってきた「真実」を見せるのだ。
俺(スピルバーグ)は、映画を愛しているのだ(そしてこれからも作り続けるのだ)ということを。

親と子の関係に、THE ENDはない、というのはそのまま映画と私の関係を暗示している。

主人公もさることながら、両親を演じたポール・ダノ、ミシェル・ウィリアムズの二人はやはりすごい役者だ。
特にポール・ダノは、非凡さをどの作品でも見せ続けている。
楽しみである。

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