身体に関する意識は年々高まる一方である。
哲学、思想の分野から市井のジムやヨガ教室に至るまで。
電子メディアが発達したおかげで生身の身体を介在させることなく、他者とのコミュニケーションが可能になった。
あらゆる買い物から銀行の振込み、友人との連絡のやり取りもすべてはキーボードの操作で可能になる。
メールの場合、他者の表情も声色も分からない。
身体から発せられる言葉なら、表情や瞳の微妙な変化、声色、その他手足のちょっとした所作などから無数の情報を読み取っている。
しかしメールだとそれは不可能である。
文章しか判断材料が無いだけに、少しの言い回しを邪推したりするきらいがある。
それが最も過激な形で現れるのは2チャンネルなどの掲示板であろう。
宮台真司はメールなどによる最近のコミュニケーションを「不安ベースのコミュニケーション」と読んでいるが、身体を介さないコミュニケーションはまさに不安ベースである。
それを和らげるために顔文字などが生みだされ、若年層を中心に多様されている。
女子中高生などのメールはもはや顔文字絵文字のオンパレードで、文面の解釈に時間がかかる。
古代、言語は絵文字から始まったが、ここへきてまた古代の絵文字のコミュニケーションに回帰しているような気がする。
なかなか面白い現象である。
個人的には「身体」には多大な興味がある。
ゆえにジムにも通う。
身体の変化は精神の変化をもたらす。
逆もまたしかり。
どちらも身をもって体験した。
身体を消すことは出来ない。
哲学、思想の分野から市井のジムやヨガ教室に至るまで。
電子メディアが発達したおかげで生身の身体を介在させることなく、他者とのコミュニケーションが可能になった。
あらゆる買い物から銀行の振込み、友人との連絡のやり取りもすべてはキーボードの操作で可能になる。
メールの場合、他者の表情も声色も分からない。
身体から発せられる言葉なら、表情や瞳の微妙な変化、声色、その他手足のちょっとした所作などから無数の情報を読み取っている。
しかしメールだとそれは不可能である。
文章しか判断材料が無いだけに、少しの言い回しを邪推したりするきらいがある。
それが最も過激な形で現れるのは2チャンネルなどの掲示板であろう。
宮台真司はメールなどによる最近のコミュニケーションを「不安ベースのコミュニケーション」と読んでいるが、身体を介さないコミュニケーションはまさに不安ベースである。
それを和らげるために顔文字などが生みだされ、若年層を中心に多様されている。
女子中高生などのメールはもはや顔文字絵文字のオンパレードで、文面の解釈に時間がかかる。
古代、言語は絵文字から始まったが、ここへきてまた古代の絵文字のコミュニケーションに回帰しているような気がする。
なかなか面白い現象である。
個人的には「身体」には多大な興味がある。
ゆえにジムにも通う。
身体の変化は精神の変化をもたらす。
逆もまたしかり。
どちらも身をもって体験した。
身体を消すことは出来ない。