チキチキ読書日記

無駄に読み散らかした本の履歴です。

リアルのゆくえ 大塚英志 東浩紀 講談社新書

2008年09月30日 11時05分16秒 | 哲学・思想
「知識人」は希望を語れるか。
「世代間闘争」の末に見えた地平は?いまの日本は近代か、それともポストモダンか?サブカルチャーの諸問題から国家論まで、「わかりあう」つもりのない二人が語り尽くす。


はじめに 世代間闘争について
第1章 二〇〇一年―消費の変容(なぜ物語に耐えられないのか;見えない権力システム ほか)
第2章 二〇〇二年―言論の変容(雑誌は誰でも作れる;論壇誌でいかに語るか ほか)
第3章 二〇〇七年―おたく/オタクは公的になれるか(メタ化するか、空気を読むか;啓蒙か、ガス抜きか ほか)
終章 二〇〇八年―秋葉原事件のあとで(同時代の事件に責任を持つ;彼らは何に怒っているか ほか)

大塚英志[オオツカエイジ]
1958年、東京都生まれ。筑波大学卒。評論家、小説家、漫画原作者、編集者。神戸芸術工科大学教授、東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師、博士(芸術工学)。著書に『「捨て子」たちの民俗学』(第五回角川財団学芸賞受賞、角川書店)など

東浩紀[アズマヒロキ]
1971年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。哲学者、批評家、作家。東京工業大学世界文明センター特任教授、博士(学術)。専攻は現代思想、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(第二一回サントリー学芸賞受賞、新潮社)など

憲法九条を世界遺産に 太田光 中沢新一 集英社新書

2008年04月15日 13時30分36秒 | 哲学・思想


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第1章 宮沢賢治と日本国憲法―その矛盾をはらんだ平和思想(日本に広がる憲法改正への動き;宮沢賢治と政治思想 ほか)
第2章 奇蹟の日本国憲法―日米合作の背後に息づく平和思想(平和憲法は「世界の珍品」;突然変異で出現した日本国憲法 ほか)
幕間 桜の冒険(賢治から遠く離れて;死の表現をめぐって;満開の桜の下で;生きることに意味はあるか;私の中の恍惚)
第3章 戦争を発動させないための文化―お笑いは世界を救えるか(思想表現としての芸;落語の表現から学ぶもの;武士道とお笑いの土壌は同じ;笑いが人を殺すこともある;イメージを体で伝える力)
第4章 憲法九条を世界遺産に―九条は平和学の最高のパラノイアだ(言葉の持つ力と危うさ;「不戦」と「非戦」の違い ほか)

フューチャリスト宣言 ちくま新書 梅田望夫 茂木健一郎

2007年10月27日 16時25分10秒 | 哲学・思想
インターネットによってすべての人に学ぶ可能性がひらかれ、ブログが名刺になり、ネットでの評判がパワーとなる。
過去に何を成したかではなく、いま何ができるかだけが勝負の「新しい世界」の到来。
日本社会との齟齬はないのか?談合型エスタブリッシュメント社会をぶち壊し、新世界の側・ネットの側に賭けよう。
未来創造の意志をもって疾走しよう。
フューチャリストの二人が、ウェブのインパクトと無限の可能性を語り倒す。

第1章 黒船がやってきた! 
第2章 クオリアとグーグル 
第3章 フューチャリスト同盟だ!   
第4章 ネットの側に賭ける
梅田望夫特別授業「もうひとつの地球」
茂木健一郎特別授業「脳と仕事力

日本人のための憲法原論 小室直樹 集英社インターナショナル

2006年05月11日 14時59分38秒 | 哲学・思想
今、憲法改正が声高に叫ばれている。
そもそも憲法とは何なのか?
こんな基本的な、根本的なことすらよくわかっていないということに気がつく。

憲法というと法律の「親玉」のような印象を漠然と持ってしまっている。

戦前の「大日本帝国憲法」は伊藤博文が欧米視察の末に、立憲君主制が強いプロイセンの憲法にヒントを得て作成したと教科書には書いてある。
また、戦後の日本国憲法は戦勝国であるアメリカによって「押し付けられた」とされるものである。

前者は、非民主的で後者は民主的と、それぞれ性格は大きく異なるが、どちらも「西洋」にそのルーツとしている。

小室氏は、冒頭に憲法を次のように定義している。

憲法とは、
西洋文明が試行錯誤の末に生み出した英知であり、
人類の成功と失敗のいきさつを明文化したものである。

つまり、憲法を学ぶということは、すなわち西洋の歴史を学ぶということに等しい。
本書もそれを主眼において書かれているので、かなりの分量を歴史的な記述に割いている。
長い歴史の中での試行錯誤が憲法をつくらしめ、そして修正せしめてきたのだ。

これを読むと日本という国が憲法を不磨の大典のごとく、後生大事にしている現状がむしろ奇異に見えてくる。



ネット社会の未来像

2006年02月15日 12時39分47秒 | 哲学・思想
ネット配信されている、ジャーナリストの神保哲生と宮台真司による番組○激トークオンデマンドをネット社会を論じた回を再構成したものである。
東浩紀や西垣通などネット社会のソフト面、ハード面それぞれのエキスパートを迎えての対論である。
東は犯罪が子供が被害者になる事件が監視社会を後押しすると主張し、同時に子供の安全にたいする言説がインフレを起こしているという。
去年起こった奈良の少女暴行殺人事件は被害者はGPS付きの携帯を所有していた。にもかかわらず犯罪にまきこまれ、そして殺害された。
このような事実から導き出されるのは、GPSつき携帯の無力さであり、子供に携帯させる各種安全グッズの限界であるはずだ。
しかし、そこに触れているメディアは皆無である。それどころか一様にさらなるセキュリティの強化をもとめて監視カメラを通学路に設置せよなどという意見もまことしやかにささやかれだしている。
東はそこに巨大産業になったセキュリティ業界の思惑を読み取る。
もし子供の身の危険が本当に問題視されるならば、家庭や学校に監視の目を行き届かせるべきである。
見知らぬ男に暴行されたり殺害されたりするよりずっと多くの割合で、それらの場所で子供たちが犠牲になっているのだ。
しかし、そういう風潮には全くならない。
事件と世論がまったく結びついていないのだ。
「安心」や「安全」という言葉が呪文のように機能し、複雑な社会問題を見ないですむよに安直な技術に飛びつく。
そのような魔術的新興が世の中を覆っている。


無思想の発見 養老孟司 ちくま新書

2006年01月11日 13時44分51秒 | 哲学・思想
06年一発目は養老孟司の新刊。しかしこの人の本って簡単に読めそうで頭がボーっとしているときなどはなかなか進まない。数学の証明のようにものすごく論理的に書かれているので、ボーっと読んでいたら何の話か分からなくなって、またページの最初から読み直しということになりかねない。
本書はそんな正月の頭が冴えない日々に読んだというのも手伝ってイマイチよく理解できてない。
まあ大筋ではこれまでの議論と変わりはない。
都市は脳の投影である。脳は自然を排除しようとする。ゆえに都市から自然は抹殺される。この場合の自然とは森や緑ではなくて死や病気や血やそういうものである。平安京において貴族が忌避したものと一緒である。

「脳」整理法 茂木健一郎 ちくま新書

2005年11月12日 16時51分40秒 | 哲学・思想
最近よくこの茂木健一郎なる人を雑誌等でみかけるようになった。僕は本を手に取るとまず著者のプロフをみる。
で、茂木さんとはどんな人物だろうか?
1962年生まれ。ソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー。東大文学部と理学部を卒業し同大学院で博士号を取得。
なるほど文理両道の方のようだ。
本書はいくつかのキーワードを軸にこの情報の洪水である現在をいかに生きるかという一種の処方箋のようなものを提示している。
それらキーワードの筆頭はやはり茂木の名前を一躍知らしめた「クオリア」という概念であろう。
クオリアとは何か。
茂木のHPを参照して以下引用してみる。
 
 クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です。クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように形成されてくるかということは、私たちの脳における情報処理を特徴付ける「統合された並列性」を解く上で重要な鍵になっています。クオリアの研究は、私たちの意識、主観的経験が物質的過程であるニューロンの活動からどのように生まれてくるかを明らかにする上で本質的であるとともに、C.P.Snowの言った「二つの文化」の間の溝を埋める可能性につながります。

僕の浅い理解では、つまり現象学におけるモノ自体とモノを認識する我々の主観の間にある隔たりを生理学的アプローチで実証しようとする試みなのであろうか?

興味深い記述があるので引いてみる。
 宗教や思想の世界とむしろ親和性が高いとも言える私たちの素朴な「生活知」と、科学によって支えられる現在の公式的「世界知」の間のずれは、原理的にいえば次の事実を背景として生まれているといってよいでしょう。
 すなわち、私たちが単なる物質的存在ではなく、意識を持ち、その中でさまざまな質感(クオリア)を感じる存在であるという事実です。

本書はいくつかのキーワードを軸に現代における脳の果たす役割と、情報の洪水の中でいかにいきるかという「生き方の処方箋」のようなことまで書かれている。

橋本治がある著書で次のようなことを述べていた。
20世紀はイデオロギーの時代で、あらゆる理論が流行り、そしてその流行すら理論になった。そして理論を突き詰めるあまり宗教などの超理論に行き着くというパラドックスに陥ってしまっている。と。

茂木も同じようなことを述べている。
現代ではよりどころとなる理論が無いから宗教や占いのような「お話」に処方箋を求めると。

この現象に対して、橋本は「わからない」という方法があると述べる。あらゆるものはわからないのだ。だから個別にそれにぶつかって解決して行こうという主張である。
茂木はまずこの社会の土台となっているものが「サイエンス」であるということを認識せよという。
私たちの生活はすべてその土台にはサイエンスがある。日常生活から社会生活、エンタテインメントにいたるまですべてである。
ゆえにそれをきちんと認識し、サイエンスに対する関心を高めること、究極には、そのベクトルは脳に向かうのだろう。

極めてあやふやな理解である。
もう少し彼の本を読んでその琴線に触れてみたい。


健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 角川Oneテーマ21

2005年10月27日 15時13分12秒 | 哲学・思想
身体に関する意識は年々高まる一方である。
哲学、思想の分野から市井のジムやヨガ教室に至るまで。

電子メディアが発達したおかげで生身の身体を介在させることなく、他者とのコミュニケーションが可能になった。
あらゆる買い物から銀行の振込み、友人との連絡のやり取りもすべてはキーボードの操作で可能になる。
メールの場合、他者の表情も声色も分からない。
身体から発せられる言葉なら、表情や瞳の微妙な変化、声色、その他手足のちょっとした所作などから無数の情報を読み取っている。
しかしメールだとそれは不可能である。
文章しか判断材料が無いだけに、少しの言い回しを邪推したりするきらいがある。
それが最も過激な形で現れるのは2チャンネルなどの掲示板であろう。
宮台真司はメールなどによる最近のコミュニケーションを「不安ベースのコミュニケーション」と読んでいるが、身体を介さないコミュニケーションはまさに不安ベースである。
それを和らげるために顔文字などが生みだされ、若年層を中心に多様されている。
女子中高生などのメールはもはや顔文字絵文字のオンパレードで、文面の解釈に時間がかかる。
古代、言語は絵文字から始まったが、ここへきてまた古代の絵文字のコミュニケーションに回帰しているような気がする。
なかなか面白い現象である。

個人的には「身体」には多大な興味がある。
ゆえにジムにも通う。
身体の変化は精神の変化をもたらす。
逆もまたしかり。
どちらも身をもって体験した。

身体を消すことは出来ない。