チキチキ読書日記

無駄に読み散らかした本の履歴です。

禅と脳―「禅的生活」が脳と身体にいい理由 玄侑宗久 有田秀穂 大和書房

2006年03月29日 12時37分42秒 | 宗教
芥川賞作家で禅僧の玄侑氏と、医師有田氏の対談である。
いわゆる宗教と科学との対話である。
僕はこれまで、とにかく科学で説明がつかないことが大嫌いで、ゆえに宗教や迷信やオカルトや超常現象などといったことからは、なるべく距離をおくようにしていた。
しかし、自分なりに勉強を進めてきて、科学もまた一つの仮説であり、万能ではないという当たり前のことがようやく分かるようになってきた。
宗教家と科学者が対談すると、とかく宗教対科学というような因縁の対決めいたことになってしまうのが大勢である。
しかし、本書は一流の宗教家、そして禅を研究する医師の対話なので、不必要な意地の張り合いは見られなかった。
しかし、医師のほうがやや必死な感じで、玄侑氏がいうことを一々科学的に根拠付けしようとする姿勢が、科学者として当然だとは言え、少々うるさく感じた。

それにしても玄侑氏の知識の広範さにはおどろかされる。
特に科学に関する知識も膨大である。
それらを自由に駆使しながら、禅、そして心という科学に容易に還元できない事象について説明していく。
実に鮮やかである。

萌える男 本田透 ちくま新書

2006年03月20日 15時44分23秒 | サブカルチャー
電車男ならぬ、電波男の著者、本田透の新著である。
最近「萌」この感じをやたらと目にするようになった。
萌えるとは一体何?
それこそ、様々な解釈が用語集ごとに載っているだろう。本田はこういう。
……ユングによると、男性の精神にはアニマ(女性的元型)が存在する。しかし、生物学的な性差を基準に、人間は否応なしに社会的性差、ジェンダーを付与されている。
つまりジェンダーにより、男らしさを強制され、本来持っているはずの女性的なものが抑圧されているというのだ。

なるほど。

萌えの対象になるものって、やたらと少女が出てくる。
それもメイド服や制服などの衣装をまとい、ロングヘアーで大きな瞳を有している。どこまでも乙女チックな少女を燃える男は好む。

さて、
萌える男たちは、一般的にはオタクと称される。
オタクはキモイという不名誉な形容詞で女子に一蹴され、現実の恋愛至上主義が跋扈する社会からは姿を消してしまっている。
「電車男」ではそんな恋愛市場原理主義が支配する現実社会に、女神ともいえるエルメスによって、もう一度萌える男が召還される物語である。

この話は結局、萌える男を肯定していない。


その辺りを本田は憤っている。
萌える男は通過点でいつかは卒業しなければならないものであるという一般了解に基づいた作品であると。

しかし、ホンモノの萌える男たちは恋愛至上主義が跋扈する現実社会から完全にドロップアウトしている。
本書を読むと、自ら参加を主体的に拒んでいるようだ。

確かにそれを踏まえてオタク街(日本橋)などに行くと妙に納得する。
彼らは他者が眼中に無い。
ぶつかっても謝らないし、大きなリュックにも気を使わない。(使う人もいる)
そして、あのファッションである。
良く分からんメーカーの白いスニーカーにヨレタジーンズ。上はTシャツに半そでのオーバーサイズのシャツを合わせ、ベルトでばっちり留めている。
彼らはファッションセンスが無いのではなく、興味がないのだ。
ファッションは他者、特に女性への自己アピール的な要素が大きい。
30代を過ぎると、女性のみならず社会に対する自己アピールという意味合いが比重を増してくるが。
いずれにしても、女性に対するアピールであるということが動機の大きな面である。


彼らが萌える=恋する相手は二次元である。
ゆえに自らのファッション的な身体は必要がない。
二次元での出来事は三次元である現実に還元されないのである。

萌える男たちにとってリアルな身体ってなんだろう?
ファッションにうつつを抜かし、疲れた体に鞭打って重たいウエイトを上げている俺なんかをみたらアホかと思うだろうか?

一日の大半をバーチャルですごしていたら身体の重要性は相対的に小さくなる。
恋愛対象までもバーチャルになってしまえば、ますます身体とその装飾にかけるコストは小さくなる。
彼らは純愛から、不倫、アブノーマルな性交まですべて、二次元で体験する。
実際にその手の本、ゲームの類の多いこと。
快楽を司るのは脳であるから、そこを刺激すれば、一人で快楽を得ることは容易である。

萌える男たちが二次元の世界に行ってしまってから、世の中には負け犬とよばれる多くの女性が残された。
酒井順子によると負け犬が生まれたのは萌える男のせいらしい。
それはあるかもしれない。

今日あるアンケートを見たのだが、気になる女性がいたら、気持ちを伝えるか?とあって伝えると回答した男性が三割程度、伝えないが大半を占めていた。

男性性は弱くなる一方である。

オタクと身体については引き続き考察してみたい。



流星ワゴン 重松清 講談社文庫

2006年03月19日 14時30分18秒 | 文学・小説
運命の分かれ道。
それは人生のいたるところに存在する。
たまたま一本早い電車に乗ったために事故にあった。あるいは合わずに済んだ。
人生はその一瞬一瞬が運命の分かれ道である。

主人公は家庭が崩壊し、会社をリストラされタナトス(死の誘惑)に魅入られそうになっている38歳の男。

そこへ一台のワゴンが通りかかり、車内へ誘われる。
運転するのは同じ38歳の男、それから8歳の少年。
彼らは一瞬の事故で命を奪われた親子であった。

現世に未練を残しているために成仏できないらしい。
で、死を意識しながらこの世に未練を残している人をワゴンに乗せて、現実がまだ未来だった過去に送り届けるというようなことをしている。

あの時ああすればよかった、こういえば良かった。
主人公は後悔の連続である。

しかし、バックトゥーザフューチャーのように、過去に行って行動を改めてみても未来は変わらなかった。

主人公は受け入れる。
肯定することを知る。
浮気をする妻に対しても、引きこもり暴れる息子に対しても。
現実を変える力を持つのは自分の意志である。

たまたま僕の前にオデッセイが現れて、過去に帰っても「今」を変えることは出来ない。できるのは認識だけである。
人間に後悔はつきものである。

しかし、
受け入れるものは受け入れて、前に進むしかないのだ。



日垣隆 ウソの科学騙しの科学 新潮社 OH文庫

2006年03月07日 14時34分47秒 | 生物・遺伝子
なんだか僕の中ではミニ立花隆のような匂いがしてならない日垣隆が、公開ラジオ番組のパーソナリティーとなり、科学者のゲストを交えながらトークをしていくという企画の活字板である。
テレビでもおなじみの千石正一さんの、生物の擬態の話が興味深かった。なんでも、蜂の雄は雌に擬態しているらしい。毒針を持つのはメスなので、オスはメスのような黄色と黒の「危険やでカラー」を持つ必要がないはず。オスはメスに擬態することにより、虎の威を借る狐となっているのだ。
なるほど。
アメリカには氏のようなサイエンスライターが多く、サイエンスジャーナリズムも盛んなようだ。
日本は研究とものづくりの国なんでもっと、このようなサイエンスを分かりやすく一般に伝えられる人々が求められる。

誰かの真似じゃつまらない 星名一郎 すばる舎」

2006年03月07日 14時24分15秒 | エッセイ
ビームスのカリスマバイヤーによるエッセイである。ビームスはいまや巨大セレクトショップとなり、ファッションに関心の無い人でも名前くらいは知っているのではないか。
僕らの頃はファッションに目覚めはじめる高校生が、最初のとっかかりとして使うショップというイメージがあった。
それは今でもそうだろう。
最近では雑貨を置いたり、カフェを併設したりして多角化している。
ビームスにおいてある商品は、僕の趣味ではないものが多いのだが、それでも「何かありそう」な雰囲気があるので立ち寄ってしまう。
たとえば神戸にあるビームスウエストなんかだと、入り口付近に雑貨があり、その華やいだ雰囲気に引かれてつい入ってしまう。
おいてある雑貨はなかなか魅力的である。
そのバイイングもこの本の著者である星名氏がやっている(いた?)ようだ。

ビームスに関してはオリジナル商品がアローズなんかと比べて圧倒的にイケテない気がする。
その辺を頑張って欲しいな。

日本人の原型を探る―司馬遼太郎歴史歓談〈1〉 司馬遼太郎 中公文庫

2006年03月03日 15時19分51秒 | 歴史
司馬さんが過去に行った対談集。珍しいところでは岡本太郎との対談があったりする。岡本太郎がひたすら縄文土器を美しいと評価したのは自分であるということをひたすら自賛している場面もあり、なんだかほほえましい。確かに岡本太郎の芸術と縄文の火焔土器とは、その表現の持つパワーに共通点が見出せる。
後半では網野善彦氏との対談も収録されている。網野氏といえば歴史家の大御所。しかし対談では圧倒的に司馬さんが対談をリードしている。
それはさておき、司馬さんの本を読むと、もちろん網野氏の本もそうだが、日本史の世界がどんどんと広がっていくのを感じる。歴史とは過ぎてしまったもの、動かしがたいもの、翻って学んでもしょうがないものという間違った固定観念が未だに多数を占めていたりする。
しかし、歴史は読めば読むほど、知れば知るほど、そこが豊饒の海であるということが分かるのだ。