チキチキ読書日記

無駄に読み散らかした本の履歴です。

超バカの壁 養老孟司 新潮新書 

2006年05月29日 13時50分46秒 | エッセイ
養老孟司という柳の木の下には何匹もドジョウがいるようだ。
本書は新書における記録を打ち立てた大ベストセラー『バカの壁』によせられた質問を元に養老氏がそれに応えたものである。

一読すると屁理屈に聞こえるが、よく読むとそれはものすごい正論で、反証不可能なものばかりである。

何度も読み返したくなる、読み返さなければならない著者のうちのひとりである。

にほんの建築家 伊東豊雄・観察記  瀧口範子 TOTO出版

2006年05月23日 12時36分26秒 | 建築・都市
安藤が、コンクリートと幾何学という自己のスタイルを頑なに守り続ける建築家なら、伊東は変幻自在、変わり続ける建築家である。

初期の伊東の建築は正直何の魅力も感じなかった。
シルバーハットなどはその典型である。

伊東が多用するアルミは、ハイッテクで未来的な印象を与えるが、それは同時に安っぽいペラペラした印象を内包する。

仙台メディアテークを境に伊東の仕事は国際的に知られるようになり、面白い表現が一気に開花したように思う。

最近ではチューブにこだわっているようである。
人間のもっとも原始的な住居である洞窟をそのモチーフにしてるようだが、現代の材料・工法をもってすればかなり面白いことがチューブで実現可能のようだ。

ただ、伊東本人は変わったことをしているという自覚があるらしく、キワモノ、変態と思われていやしないかと心配しているところが建築家らしくていい。
これが画家なら、こんな心配はしないだろう。
建築は作家性だけで作れるものではない。
常に社会の要請を反映したものでなければならないのだ。

いまどきの「常識」 香山リカ 岩波新書

2006年05月19日 13時12分43秒 | 社会・生活
常識とは何を指すのだろう?
辞書を紐解いてみる。
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力
とある。

つまり、常識とは知っていることが「常識」なわけで、それを知らぬは非常識というわけだ。
ゆえに、何が常識なのかを聞くのは、はばかられるのである。

いまどきの「常識」とは何か?
ここには「いまどきの常識」が列挙されている。
「反戦・平和は野暮」「お金は万能」「世の中すべて自己責任」

これらに共通するのは、身も蓋も無い「現実主義」だ。
もはや理想を語ることは忌避される。

僕も、この本を読むまであまり気がつかなかったのだが、最近の自分の思考や影響を受けた本や発言などを見回してみても、これらの「常識」に則っているいることに改めて気がつく。

平和平和というスローガンを叫んでも平和はやってこない。
こう主張する人が最近増えているように思う。
井沢元彦などもがその典型で、「逆説の日本史」の中でも繰り返し述べている。

日本は「普通」の国になるべきだと主張する人も、ここ数年増えてきたように思う。
普通の国とは、要するに軍隊を持つ国のことである。
日本は「建前」は軍隊を持たない。
しかし現実には自衛隊という武装集団を持つ。
憲法9条によって手足を縛られているために、その活動は大幅に制限されてしまっている。

その手かせ足かせ、つまり憲法9条を改正して、自衛隊を解き放ち、ひいては普通の国になろうというのが、最近の与党の目論見である。


本書を読むにつけ、日本は本当に極端に左右に揺れる国だなと思う。

小泉改革によって、政府は徹底した市場主義を導入し、日本経済からあいまいさを一掃しよようとしている。
政府や政治家のスローガンとしては、耳障りもよく爽快で、有権者の耳目をひきつけるだろう。
しかし、小泉改革の途上ですでに格差が言われている。
それが完成した暁には、いわゆる上流と下流に二極分化したいびつな社会になるのではないか。

いまどきの「常識」が恐いのは、それが一種のイデオロギーと化しているところだ。
「常識」に異を唱える人は「非常識」な人間として徹底的に糾弾され、排除される。

現実はあくまでも認めなくてはならないが、それでも理想を語ることを否定すべきではない。
なんか最近息苦しいのは、このうっとおしい天気だけが原因ではなさそうだ。

解剖男 遠藤秀紀 講談社新書

2006年05月17日 15時30分14秒 | 生物・遺伝子
以前、この場末の読書ブログにご丁寧にも、コメントをつけてくださった遠藤秀紀先生の新刊である。
出てるのをみて、すぐにでも買って読みたかったのだが、もったいないのでしばらく「寝かして」おいた。

満を持して読んだのだが、期待通りの興味深い内容である。
前回は、動物の解剖などという未知のテーマの本だだっただけに、興味本位で読み進めた。
しかし、今回は前著で「予習」しているので、少しは予備知識もつき「自然科学」「博物学」としての読み物として読むことが出来た。

本書のテーマはもちろん、遺体からみた動物のすごさ、進化の神秘についてである。

しかし、一方で「現場」を放棄しつつある解剖学や自然科学全般、ひいいてはこの社会に対する強烈な批判となっている。

筆者は動物の血にまみれ、まだ体温で熱い臓器を切り刻む。
遠くヨーロッパに出かけても、観光もせず、一日中ノギスで猿の頭骨を測り続ける。
これこそが解剖学であり、自然科学であろう。
動物はリアルな存在である。
いくら精緻なデーターをつみあげても実物のねずみ一匹再現できない。
今は、詳細な実物のねずみの研究よりも、データベースなどの二次的なものの研究のほうが盛んになっているように思うのだ。

あらゆるものの答えは現場にある。
分かっているのに、みんなそれを忘れる。
本書は痛烈にそのことを教えてくれた。

カラフル 森 絵都 理論社

2006年05月12日 14時04分10秒 | 文学・小説
この本の題名、そして装丁。
どちらも魅力的で惹きつけられるものがあった。
普段、人に本を借りたりしないのだが、生徒に貸してもらって読んでみた。

主人公は自殺した少年の魂。

昇天する最中に天使に呼び止められる。
「君は大きな過ちを犯して死んだ魂だ。ゆえに輪廻転生のサイクルから外される」と
輪廻転生からはずれることは、いわゆる解脱ってことで、すごろくの「上がり」のようなものなのでよいような気がするが、まあそこは突っ込むところではないか。

それはさておき、

この魂は、自殺した少年小林真の体を借りて、真として、彼の人生を生き直すことになる。
他人の家という認識もあり、少年は家族がどれも欺瞞に満ちた嫌な存在として写る。偽善者の父親、不倫する母親、そして偏屈の兄貴。
かれらが良かれと思ってすることを、額面どおりに受け取ることが出来ず、ますます疑いと嫌悪を深めていく少年。

しかし、少年の魂が入った真は、以前とはうって変わって、積極的な少年になっていく。やがて親友を得ることもできた。
真は絵が好きだった、途中で死んでしまったので、描きかけのその絵を真になった少年は受け継いで描く。
不思議とそれはもとの真の絵に似ているのが最後のオチの複線なのだが。

結局、人を救えるのは人しかいない。
自分でどうにもならない運命に抗うのは無謀で、周りの人に打ち明け、心をさらけ出すことでしか救いは得られないのだ。
児童書とはいえ、なかなか深い内容で、考えさせられた。

日本人のための憲法原論 小室直樹 集英社インターナショナル

2006年05月11日 14時59分38秒 | 哲学・思想
今、憲法改正が声高に叫ばれている。
そもそも憲法とは何なのか?
こんな基本的な、根本的なことすらよくわかっていないということに気がつく。

憲法というと法律の「親玉」のような印象を漠然と持ってしまっている。

戦前の「大日本帝国憲法」は伊藤博文が欧米視察の末に、立憲君主制が強いプロイセンの憲法にヒントを得て作成したと教科書には書いてある。
また、戦後の日本国憲法は戦勝国であるアメリカによって「押し付けられた」とされるものである。

前者は、非民主的で後者は民主的と、それぞれ性格は大きく異なるが、どちらも「西洋」にそのルーツとしている。

小室氏は、冒頭に憲法を次のように定義している。

憲法とは、
西洋文明が試行錯誤の末に生み出した英知であり、
人類の成功と失敗のいきさつを明文化したものである。

つまり、憲法を学ぶということは、すなわち西洋の歴史を学ぶということに等しい。
本書もそれを主眼において書かれているので、かなりの分量を歴史的な記述に割いている。
長い歴史の中での試行錯誤が憲法をつくらしめ、そして修正せしめてきたのだ。

これを読むと日本という国が憲法を不磨の大典のごとく、後生大事にしている現状がむしろ奇異に見えてくる。



脱ファスト風土宣言―商店街を救え! 三浦展 編著 新書y

2006年05月09日 09時58分52秒 | 建築・都市
少し前に、地元である高松に巨大ショッピングモールが出来た。
そこには広大な駐車場が完備され、無印良品やコムサなどの集客力のあるショップが入店している。
高松は長大なアーケードを有した商店街が有名であるが、ここ数年訪れることも少なくなった。
理由は上記のような巨大ショッピングモールに出かけるからだ。

なぜその巨大ショッピングモールに出かけるのだろう?
理由はいくつかある。
まず駐車場が完備されアクセスが良い。
これは車社会である地方に住む人間には大きい。

次に考えられるのは、行きたい店のみが高密度に集中しているという点である。

高松の商店街も屋根つきであるが、行きたいショップにたどり着く前に、八百屋があったり乾物屋があったりする。
あるいは、道路を横断したり、信号待ちをしたり、アーケードの切れ目で雨にぬれたり、自転車にぶつけられそうになったりと、目指す買い物以外の要素が多く入り込んでくるのである。

一方の、巨大ショッピングモールは上記のような心配は全く無い。
ショップからショップへと快適にアクセスできる。
消費以外の事は考えなくても良い。
考える余地が無い。

このような空間の内部では、我々は「消費者」以外の何者でもない。
付き添いのお父さんのような、消費をしない人はすわり心地の悪いテーブルでタバコを吸いながら妻子を待つしかない。
消費をしない人間はこの空間から疎外されるのである。

高松だけではなく、日本中の郊外のロードサイドはこんな巨大ショップが軒を連ねている。
ほしい商品がおいてある店がピンポイントで並ぶ様は、一見楽しい。
しかし、立ち止まって考えると空恐ろしいことであるという事実に気がつく。

そこに広がるのは消費のための空間である。
商品という風景に癒されるためにせっせとそこに通う。

現在は消費社会などといわれるが、その傾向はここへきてますます加速しているように思うのだ。