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まさおレポート

ポンペイ紀行

追記

いまだに新しい壁画が見つかるのか。奥深いな。

イタリア・ポンペイ遺跡で出土した、黄金の羊に乗ったプリクソスと海に落ちるヘレーを描いたフレスコ画。ポンペイ考古学公園提供(2024年3月1日撮影)。(c)AFP PHOTO / Parco Archeologico di Pompei press office

2006/6/3

ポンペイは南イタリアに栄えた古代ローマ都市で2万の人口と農産物と海産物、地中海貿易の中継地という好条件で豊かだった。現在はポンペイ周辺の水位が上がっているが、当時は低く港に隣接した海洋都市であった。西暦62年2月5日にポンペイを襲った激しい地震によりポンペイは大きな被害を受け再建中の79年8月24日午後1時にヴェスヴィオ山の噴火と火砕サージのガスに飲み込まれる。噴火から19時間後には町は高さ6mの火山灰に埋もれ一晩で滅亡した。噴火時のローマ皇帝はティトゥス。

入り口からマリーナ門、城壁に囲まれた中心部分は東西約700m、南北約500mで、その周囲にもモニュメントが残っている。

 

公共広場フォロ。

 

1763年、ポンペイの隣のエルコラーノで大理石の柱が偶然に発見されスペイン国王カルロス3世はポンペイの発掘作業を開始した。

ポンペイ遺跡のパシリカは柱だけが残った。

訪れたのは6月ですでに暑い季節だ。

市の中心には広場があり碁盤目状の通路とあいまって計画的に設計された都市であったことがわかる。2万の市民の多くが火砕流発生前に逃げたが、街に留まった者約2千人が犠牲になったと伝えられる。

分厚いレンガの門。

柱とステップがジュピター神殿の往時をしのばせる。

街区の道路は車道と歩道が区分され、車道に置かれた丸い飛び石は横断歩道用であり、雨の時の踏み石でもあった。また馬車の速度を制限する目的もあった。アボンダンツァ通り?この辺りの家はレンガの柱と石やセメントの壁で築かれている。貴族の家と比べると貧しいのかも。

発掘された約1200戸の住宅の多くは、玄関先にアトリウムと呼ばれる大広間をもつ豪邸。屋根をつたって庭の水溜に流れこんだ雨水は更に地下の貯水池に流れこんでいる。ギリシャ神話で宮殿の水盤のある中庭をアトリウムと呼んでおり古代ローマ時代の住居の中庭を意味するようになった。「アトリエ」の語源にあたる。

いたるところに設置された水道には、いろいろな形の蛇口が。壁画の赤みがかった色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれる。

水道の弁は、水の量を調節する装置が現在と変わらない。きれいな水を町中に送っていた。

壁画で装飾された部屋のあと。文化水準が高かった。

アトリウムに咲く紫陽花。

墓?

高台の住居跡。剣闘士の宿舎。

柱の色が白っぽいのは大理石のせいか。

 神殿跡か?

アレキサンダー大王の遠征。ナポリ考古学博物館にレプリカがある。アレクサンドロス大王のモザイクは、ポンペイ遺跡で見つかったモザイク画の最高傑作の一つで、横約5・8メートル、縦約3・1メートルの巨大な作品。アレクサンドロス大王が、「イッソスの戦い」でペルシャ軍と戦う様子を描いたとされる。1831年に遺跡の中の邸宅の床に描かれているのが発見され、ナポリに移されていた。

不思議な点。

アトリウムにあるモザイク画に描かれた鳩。

遺跡と雲。

ポンペイ遺跡のドーリア式柱頭は現役で上部を支えている。

裕福な商人ヴェッティの家のフレスコ画で『生殖の神プリアモス』を描く。生殖の神が巨大な男根と金貨のはいった袋を天秤にかけた画だ。町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスでありこうした絵は好ましいものとされたようだ。

娼婦の館などが発掘され、男女の交わりを描いた壁画が多く出土している。ポンペイのような商業都市には娼婦館は多かった。娼館(Lupanare)は雌オオカミを意味するLupaという言葉が転化している。

 ヴェッティの家。

レンガ柱通りの両側には家と店があり建造物は石やレンガでできていた。居酒屋のメニューも残っていて、「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意してあります。」と記されている。

狭い通路もある。

整備された上下水道の水道の弁。

ラテン語?の看板?はポンペイレッド。

ラテン語?の看板?はポンペイレッド。

ヴェチュチウスプラシダスのテルモポリウム、居酒屋の竈あと。通りには居酒屋が100軒以上あった。居酒屋です。カウンターには、色のついた大理石が貼られカウンターの穴には、食べ物や飲み物の入ったかめが置かれていた。

パン屋かま、パンはBC2世紀にローマ人に広まるがそれまでは小麦の粥「プルス」を食っていた。

ブーゲンビリア。

ヴォールト(かまぼこ型の天井)と墓。

ポンペイ遺跡から円形闘技場へと向かう途中の回廊。右は列柱で囲われた大体育場、左は劇場のロビーで戦士の武器も発見され兵舎として使用された。

円形野外闘技場、ここで剣闘士が死ぬまで戦わされた。拳闘あるいは剣闘士の試合用に設計された闘技場としては古代ローマ帝国最古で、2万人つまりポンペイ中の市民を全員収容できたという。

円形闘技場の内部、馬蹄形をしたギリシャ様式の大劇場の観客席。紀元前3世紀から2世紀のもの。地中海中に広がる属州から富はもたらされ、ローマ市民は人頭税や属州民税(資産の10%で凡そ収穫の33%程度)も課されない。パンとサーカスを与えられる一方拳闘あるいは剣闘士はこの入り口の一つから入場し、一方が死ぬまで戦い、敗者はもう一方の出口から退場した。

ベスビオス山を望む。 当時の記録ではヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、イタリアカサマツのような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだと記録されている。 

ジュピター神殿、ジュピター、ユノ、ミネルヴァの3神が祀られていた。左は標高1,281mのヴェスヴィオ山と右は標高1,123mのソンマ山。ジュピターは最高神で、ユノは姉であり妻、ミネルバはジュピターの頭から生まれた戦争神。 

イタリアカサマツや糸杉が育っている。

イタリアカサマツ。

糸杉。ノチェーラ門のすぐ外に設けられた墓。

イタリアカサマツ パレストラグランデ、大競技場。中央にはプールも。

アトリウム。

神殿。

碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。

神殿。

大通り。

 

 

 遺跡の日陰で気持ちよさそうに寝る犬。

ポンペイ遺跡は広大で6月の太陽の下を精力的に歩き回ったが一日ではすべてを丁寧に見きれなかった。遺跡は火山灰に埋もれた当時の住居群を崩壊した建築材料を使って再現したものだ。途中で観光客が大勢で覗き込んでくすくす笑っている住居があった。何かと思ってみると歌麿もびっくりの巨大マラを出した男のモザイク画がかけられていた。子宝に恵まれた自慢と家の繁栄を誇っているらしい。そんな記憶しか残っていないので遺跡がどこでもそうであるようにポンペイも比較的単調だったということだろう。

当時の人々の生活風景を想像しながら疲れた足で最後に闘技場に向かった。ちょうど当時の人々が夕暮れ時に闘技場に向かうように同じ道を歩いた。ここでも闘技場は立派であった。チュニジアのカルタゴでも立派な闘技場を見た。ローマのコロッセウムを入れると3番目の闘技場だ。

ローマ帝国と闘技場は切っても切れない関係にある。闘技場の興奮を提供できない為政者は市民から支持されなかったのだから極めて重要な施設だ。重要さから言うと水道施設と同じくらいではなかったかとまで考えてしまう。

現代人もK-1やPRIDEをはじめとしたリアルファイト系格闘技が大好きだが2000年前と人間の根っこは変わっていない。もっとも現代の格闘技では人は死ぬことはめったにないが、この闘技場の格闘技は一方がむくろとなって運び出されるまで終わらない。

この闘技場に辿りついて、ポンペイ市民が興奮のるつぼとなっているシーンを想像してみたら、にわかにたった今歩いてきた単調な遺跡群に生身の人々の立ち居振る舞いが見えたような気がした。

2021・3・2 追記

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4210684.html

伊・ポンペイ遺跡で「並外れた発見」、約2000年前の馬車発掘
1日 5時42分
 イタリア南部の世界遺産ポンペイ遺跡の近くでおよそ2000年にわたり地中に埋もれていた馬車が、ほぼ完全な状態で発掘されました。専門家は「並外れた発見だ」としています。

 こちらが発掘された馬車です。4つの車輪がついている馬車で、青銅やすずなどで細かい装飾が施されていたことも確認できます。

 遺跡を管理する「ポンペイ考古学公園」によりますと、この馬車は西暦79年にポンペイがベスビオ火山の噴火による火山灰などで埋没した当時のもので、祭りなどの儀式の際に使用していたとみられています。およそ2000年の時を経て掘り出されましたが、保存状態がとても良いということです。

 専門家は「イタリアで儀式用の馬車が発掘されるのは初めてだ」とし、「古代への理解を深めるうえで、並外れた発見だ」と称賛しました。

コメント一覧

Unknown
msato様
コメントありがとうございます。
年月が経ってから見る写真は懐かしさも合わさって一層素敵になりますね。
msato
懐かしい
18年ぐらい前にローマ、ポンペイベネチアなどを周ってきました。ポンペイの写真懐かしいです。ベネチアでクルザーに乗ってガラス工房に行きましたが船がとても気持ち良かったのを覚えています。
msato
懐かしい
1998年秋ローマ、バチカンからベネチアそしてポンペイ、フィレンツェと周ってきましたが、まさに芸術の国、あらゆるデザインの見事さに感動しました。女性も綺麗でした。現地でガイドをしてくれた日本から渡った人々とのお話も興味深いものがありました。写真懐かしく拝見しました。今度この話で盛り上がりましょうか。
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