ネバーエンディングストーリーのように、書かれた本の中の物語が現実になる。そのような世界を描いている。そこでは、「どのような現実が比喩をまねたりするだろう」というありえないことが実際に起こる世界。
この奇妙な創作をすることで「たぶん新しい小説を書き始めたあたりだ。母親の亡霊はそのあたりを境にして、かれの周りをうろつくのを止めたようだった。」
長年、天吾を苦しめた悪夢のような「母のイメージ」が消える。作品が実際の効力を持つことを著者は欲している、そんなメッセージが伝わる。
「たぶんひとつの新しいトラブルが、ひとつの古いトラブルをおいだしたということなのだろう。」
そして、しかし青豆が危険にさらされる。
「誰かと仲良くなるのは、相手に危険をもたらすことになるのだ。それが二つの月の下で生きていくことの意味だ」
愛を全力で阻止する闇の存在がある?しかし、青豆はこれまでの人生にない気持ちを感じる。天吾の書くストーリーに従って自分の世界が変わるという奇妙な出来事に対して、
「彼の論理と彼のルールに導かれている。そしておそらくは彼の文体に。なんと素晴らしいことだろう。彼の中に、こうして含まれているということは。」
「彼の文体」に「こうして含まれている」ことに青豆は深い救済を実感する。
「青豆は自分が死んでいくことを特に怖いとは思わなかった。私は死に、天吾君は生き残る」
「紙の匂い、インクの匂い。そこにある流れに静かに身をゆだねる。」
「これが王国なのだ、と彼女は思う。私には死ぬ用意が出来ている。いつでも。」
この「私には死ぬ用意が出来ている。いつでも。」が繰り返し繰り返し現れる。
天吾の描く、奇妙なトンデモ本と紙一重の小説は、
「ほとんどの読者がこれまで目にしたこともない物事を、小説の中に持ち込むときには、なるたけ細かい的確な描写が必要になる。」ほど詳細を究める。ベッドに見た空気さなぎはその詳細な描写のままに現れる。これはもちろん「1Q84」を創作する場合の村上春樹の手法でもある。この「ほとんどの読者がこれまで目にしたこともない物事」を書くために原稿2000枚を超える「細かい的確な描写」が展開する。
そこは、リトルピープルと反リトルピープル的な力の相克する、あるいは、バランスする世界。反リトルピープル的な力とは、ジョージ・オウェルの「1984」のなかに登場するビッグブラザーのことか。あるいは、リトルピープルがビッグブラザーか。今のところ、よく分からない。
「リトルピープルがその強い力を発揮し始めたとき、反リトルピープル的な力も自動的にそこに生じることになった。そしてその対抗モーメントが、君をこの1Q84年にひきこむことになったのだろう。」
「その対抗モーメントが、君をこの1Q84年にひきこむ」とリーダーが言う。・・・なるほど。
「なぜ彼らには私を破壊することができないの?」
「すでに特別な存在になっているからだ」
「君はそれをやがて発見することになるだろう」
天吾の愛が青豆を守っていると言いたげだが、あっているだろうか。
天吾の愛の原点は
「気がつくと彼は10歳で、小学校の教室にいた。」
「彼女の右手は、苦しみあえぎながら大人になっていく天吾を、常に変わることなく勇気づけてくれた。大丈夫、あなたには私がいる、とその手は告げていた。」
「彼女は一体月にむかって何をさしだしたのだろう」
そのときから二つの月がうまれる素地ができる。
「ドウタが目覚めたときには月が二つになる」謎の言葉が延々と続く。ドウタは人の影で悪であるらしい。
リトルピープルに対しては(何もこれだけではないが)思わせぶりな記述が続く。後編があるのならいいが、それにしてもなあ、という気持ちになってくる。夢の精神分析につきあわされている精神医だと思って読めばいいのかも。
「空気の中から糸をとりだして、それですみかを作っていく。・・・」
「それは誰のためのすみか」
「そのうちわかるぞ」
「・・・ほうほうと別のリトルピープルがはやした」
「我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。」
「何人くらいのリトルピープルにあったのだろう」
「わからない それはゆびでかぞえられないものだから」
「わたしたちはふたりでひとつだから」
それでも最後まで面白く読める。これで充分ではないかと「1Q84」作中で作者は天吾に言わせているが、その通り。