音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

小林繁よ永遠に

2010-01-18 22:02:04 | 事件
小林繁コーチをナマで最初に観たのは関西赴任中でした。大阪ドームのこけら落としの年(97年)に、大阪ガスの営業から貰ったチケットで新球場を視察に行ったのでした。近鉄の先発は巨人から移籍した石毛。この石毛が初回からストライクが入らず、4連続四球押し出しで無様に降板したとき、2度ほどマウンドに駆け寄ってきた小林ピッチングコーチの姿をお見受けしたのです。お腹が全く出ておらず現役時代さながらのスリムなスタイルに感服いたしました。

昨日の急逝の報を目にした時から、歴史の「if」を考えています。あの「空白の1日」騒動により巨人がボイコットした78年のドラフト会議で、いわくつきの江川を指名したのは4球団でした。当たりクジをひいたのが阪神ではなく、南海、近鉄、ロッテのいずれかであれば、どうなっていたかということです。以前のエントリーでも書いたように、阪神以外の3球団であれば球界の盟主に気を遣って(というか空気を読んで)金銭トレードに応じた可能性が高い。巨人だって金で済むなら言い値を払ったでしょう。

それに、人的補償は新浦が指名されていてもおかしくなかった。というのも、前年に成績を落としていた小林(18勝→13勝)に対して、1歳違いの新浦は前年の11勝→15勝と脂が乗っていたのです。どの球団も希少性の高い本格派左腕はノドから手が出るほど欲しいので、パリーグの地味な3球団は、実質重視で新浦を選んだ可能性は高い。阪神が小林を要求したのは、彼が人気球団にふさわしい華を持ったスターであり、前年の対阪神戦5勝負けなしの実績を誇る天敵だったから。それとライバル巨人への嫌がらせでしょう。

阪神以外のチームが江川を引き当てた場合は、小林は巨人に残った可能性が高い。となると、小林と江川はジャイアンツでチームメイトになっていたことになります。堀内は既に衰えていて存在感がなく、加藤初は外様で寡黙なタイプ、新浦は台頭してきたばかりでしたから、第一次長嶋政権の投手陣においては小林は押しも押されぬリーダーでした。江川とは3歳差、人気・実績が抜群で大人の小林が兄貴分として上にいたら、江川もずいぶんラクだったんじゃないかと思います。そうなると、早くからお山の大将にならなかった江川の取り組みも、西本との関係も全く違ったものになっていて、長嶋監督が80年暮れに解任されることもなく・・・、そうなると球史もガラッと変わってきます。

小林自身も移籍1年目に尋常ならざるエネルギーを費やしたことが、選手寿命に影響したことを告白しています。さらにいえば阪神という特殊な球団のエースは、関西マスコミからは超スーパースターとして奉られますから、それもかなりの負荷がかかったことでしょう。そのままジャイアンツにいれば、あれほど早い現役引退はなかったのかもしれません。

プロの矜持を示した細身の大投手のご冥福をお祈りします。合掌。


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2 コメント

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イフ (マルセル)
2010-01-21 13:02:25
> そのままジャイアンツにいれば、あれほど早い現役引退はなかったのかもしれません。

これほど早い死もなかったかもしれません。
そうですね (音次郎)
2010-01-21 23:19:54
>マルセルさん、どうもです。
たしかに無理をしていたような気がします。指導者適性が高いのに、TVの世界に長く居過ぎたりして・・・。移籍時に「いずれコーチとして巨人に呼び戻す」という密約が噂されたりしましたが、そういうもの全てが煩わしかったんでしょう。

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