奈良県田原本町で母子3人が死亡した医師(47)宅放火殺人事件で、逮捕された高校1年の長男(16)が、11日朝に接見した弁護士に対し、事件後初めて「お父さんに会いたい」と漏らしたことがわかった。長男はこれまで、事件の動機について、普段勉強を通じて厳しく接していた父親からの逃避などをあげていた。父親とは事件後、面会していないが、長男は「会ったら最初にごめんなさい、と謝りたい」と話したという。(産経新聞) 7月11日
最近この事件のことばかり書いていますが、私はこの少年に強いシンパシーを感じているのですね。「父に会わす顔がない」ということで、面会を拒否していた彼ですが、「お父さんに会いたい」 うーん、わかりますね、その気持ち。
私のどうでもいいような個人的な体験を書こうと思います。私は関西赴任時に、縁あって向こうの女性と結婚したのですが、妻の実家は日本の伝統的な風習を未だ色濃く残すような、京都の片田舎にありました。東日本で育ち、その種のしきたりとは全く無縁で育った私にとっては、知れば知るほどカルチャーショックの連続だったのですが、それでも結婚の際は、一応通過儀礼をこなさなければなりません。後学のためにというよりも、好むと好まざるとその場に身を置いたわけです。連日、親戚やら隣組(妻でさえ誰が誰だかよくわからない)やらの長老連が鎮座する宴席で、スピーチをしたり挨拶をして、後はひたすらお酌をしては飲むわけですが、関西弁がというより、内容的に何を言ってんのかわからない。。。まさに、I do'nt know what to do状態ですね。妻の実家に帰宅しても、宴会は続くのですが、叔父さんたちともまた話題が合わない・・・なかなか会話のキャッチボールにならんのですね。いや、決して辛い目にあったんじゃないんです。お義父さんもお義母さんも、裏表のない、このうえもなく善良な方々で、こんな私にもたいそう気を遣って良くしてくださるのです。ただ、日頃仕事で接しているような上場企業の執行役員然としたおぢさんであれば、そこそこ適当な相槌も打てそうなものですが、皆さんは同じ場所で生まれ育って、ずーっとそこで暮らしている人たちですから、もちろん私とは物の考え方が相当違うのです。それに職人気質でシャイときていますから、こちらとしては、話の接ぎ穂を見つけるのに苦労するんですね。まあ向こうにしてみても、私のような訳のわからない、しかも何を考えているのかが不明な怪しい人物を前にして、どう接してよいのかわからなかったでしょうから、そこはお互い様なのですが・・・。
そんなわけで、さすがの鉄面皮の私も、連日のお付き合いで少々くたびれてしまったわけです。そんな時、何故か無性に父親に会いたくなったんですね。自分の実家に行く度に、親父がいないとホッとしていた私がです。これは不思議な感覚でした。一般的なイメージでは「望郷の念にかられる」というと、母親に思いを馳せるものなのかもしれませんが、違うんです。その時は父親と話がしたいと思ったんです。
私は父親のパーソナリティーやビヘイビアがあまり好きではなく、反発していました。長じてからは特に、その言動を反面教師としていた部分が多々あったんです。年頃の男の子は誰しもそうだと思うのですが、家で父親と二人で飯を食う場面があると、沈黙が嫌で、一刻も早く食べ終わりたいとばかり思っていたものです。自分の良き理解者は母親であり、父親は煙ったい存在だと。
でも異郷の地(といっても日本ですが)で、全く違う価値観の人たちに囲まれて過ごしていると、あれほど嫌だった父親の言動が懐かしく思い出されてくる。「嗚呼、自分は骨の髄まであの親父の息子なんだな」と。自分を自分たらしめているものの源は何なのか? それは自らのアイデンティティーの在処を強烈に意識した瞬間だったんですね。
妻の実家で用意された客人用の羽毛布団にくるまって、和室の柾目天井をぼんやり眺めながら思いました。「やっぱり俺はどこに行っても親父の息子なんだな」と。
奈良の少年も、囚われの身になってから3週間近く経ちました。現在、連日にわたる取り調べの最中でしょう。警察官や弁護士など「異人」たちの中に、ひとり身を置いて、今何を思うのでしょうか。
少年の家庭は、離婚調停により母と妹とは強制的に「他人」にさせられました。新しい家族で、兄妹の中では自分だけ両親と血がつながっていなかったという。でもその種の疎外感については、私はそれほど重要視していません。
聡明な少年のことですから、今「自分は何者なのか」という実存的なテーマを掘り下げようとしているはずです。どんなに反発し憎しみや畏怖の対象だったとしても、自らのDNAには間違いなく父親の刻印がされているはずです。その父親と対峙しなければならない時がいつか来る。
少年は会ったら最初に「ごめんなさい」と詫びたいと語っているそうです。それに対して、父親はそのとき息子にどんな言葉をかけるのでしょうか。
最近この事件のことばかり書いていますが、私はこの少年に強いシンパシーを感じているのですね。「父に会わす顔がない」ということで、面会を拒否していた彼ですが、「お父さんに会いたい」 うーん、わかりますね、その気持ち。
私のどうでもいいような個人的な体験を書こうと思います。私は関西赴任時に、縁あって向こうの女性と結婚したのですが、妻の実家は日本の伝統的な風習を未だ色濃く残すような、京都の片田舎にありました。東日本で育ち、その種のしきたりとは全く無縁で育った私にとっては、知れば知るほどカルチャーショックの連続だったのですが、それでも結婚の際は、一応通過儀礼をこなさなければなりません。後学のためにというよりも、好むと好まざるとその場に身を置いたわけです。連日、親戚やら隣組(妻でさえ誰が誰だかよくわからない)やらの長老連が鎮座する宴席で、スピーチをしたり挨拶をして、後はひたすらお酌をしては飲むわけですが、関西弁がというより、内容的に何を言ってんのかわからない。。。まさに、I do'nt know what to do状態ですね。妻の実家に帰宅しても、宴会は続くのですが、叔父さんたちともまた話題が合わない・・・なかなか会話のキャッチボールにならんのですね。いや、決して辛い目にあったんじゃないんです。お義父さんもお義母さんも、裏表のない、このうえもなく善良な方々で、こんな私にもたいそう気を遣って良くしてくださるのです。ただ、日頃仕事で接しているような上場企業の執行役員然としたおぢさんであれば、そこそこ適当な相槌も打てそうなものですが、皆さんは同じ場所で生まれ育って、ずーっとそこで暮らしている人たちですから、もちろん私とは物の考え方が相当違うのです。それに職人気質でシャイときていますから、こちらとしては、話の接ぎ穂を見つけるのに苦労するんですね。まあ向こうにしてみても、私のような訳のわからない、しかも何を考えているのかが不明な怪しい人物を前にして、どう接してよいのかわからなかったでしょうから、そこはお互い様なのですが・・・。
そんなわけで、さすがの鉄面皮の私も、連日のお付き合いで少々くたびれてしまったわけです。そんな時、何故か無性に父親に会いたくなったんですね。自分の実家に行く度に、親父がいないとホッとしていた私がです。これは不思議な感覚でした。一般的なイメージでは「望郷の念にかられる」というと、母親に思いを馳せるものなのかもしれませんが、違うんです。その時は父親と話がしたいと思ったんです。
私は父親のパーソナリティーやビヘイビアがあまり好きではなく、反発していました。長じてからは特に、その言動を反面教師としていた部分が多々あったんです。年頃の男の子は誰しもそうだと思うのですが、家で父親と二人で飯を食う場面があると、沈黙が嫌で、一刻も早く食べ終わりたいとばかり思っていたものです。自分の良き理解者は母親であり、父親は煙ったい存在だと。
でも異郷の地(といっても日本ですが)で、全く違う価値観の人たちに囲まれて過ごしていると、あれほど嫌だった父親の言動が懐かしく思い出されてくる。「嗚呼、自分は骨の髄まであの親父の息子なんだな」と。自分を自分たらしめているものの源は何なのか? それは自らのアイデンティティーの在処を強烈に意識した瞬間だったんですね。
妻の実家で用意された客人用の羽毛布団にくるまって、和室の柾目天井をぼんやり眺めながら思いました。「やっぱり俺はどこに行っても親父の息子なんだな」と。
奈良の少年も、囚われの身になってから3週間近く経ちました。現在、連日にわたる取り調べの最中でしょう。警察官や弁護士など「異人」たちの中に、ひとり身を置いて、今何を思うのでしょうか。
少年の家庭は、離婚調停により母と妹とは強制的に「他人」にさせられました。新しい家族で、兄妹の中では自分だけ両親と血がつながっていなかったという。でもその種の疎外感については、私はそれほど重要視していません。
聡明な少年のことですから、今「自分は何者なのか」という実存的なテーマを掘り下げようとしているはずです。どんなに反発し憎しみや畏怖の対象だったとしても、自らのDNAには間違いなく父親の刻印がされているはずです。その父親と対峙しなければならない時がいつか来る。
少年は会ったら最初に「ごめんなさい」と詫びたいと語っているそうです。それに対して、父親はそのとき息子にどんな言葉をかけるのでしょうか。
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