秋田城
8世紀の奈良時代、中央政府は、東北地方の蝦夷軍事的制圧を積極的に進め、
708年に出羽柵(でわのき)という城柵を庄内(酒田)に作り、現在の山形・秋田を
出羽郡とし、後、712年には出羽国へ昇格させた。
中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年、出羽柵は秋田村高清水岡に
移設し760年に秋田城に改名。
続日本紀には、780年(宝亀11年)8月23日、秋田城へ派遣された鎮狄将軍
(ちんてきしょうぐん)安倍家麻呂の具申(ぐしん)に対して朝廷から「秋田城は、前
将軍や宰相(さいしょう)が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したこと
が見え、760年頃に秋田城へ機構改変したことを裏付ける。
このときの安倍将軍と朝廷の応答において、秋田城は蝦夷による攻撃にさらされ
るため放棄すら検討されたが、専任国司1人と軍兵を派遣することが決定され、
かえって防御が強固となった。これにより、次官国司である出羽介が秋田城介
(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった。
804年(延暦23年)、蝦夷の反乱が激しくなり秋田城は停廃されて秋田郡となった。
これは、秋田城に置かれていた国府が別の場所へ移転したことを意味すると見ら
れている。
秋田城は、蝦夷対策のため完全に停止されることなく、出羽北部の軍事・行政
拠点として存続した。
878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)の際は、俘囚側が
秋田城を占拠する事態に至り、鎮守将軍として派遣された小野春風の条件提示
により反乱側との妥結が成り、秋田城が回復された。
939年(天慶2年)にも俘囚が蜂起し、秋田城が攻撃を受けている(天慶の乱)。
このように、秋田城は被害を受けることが多かった。
発掘調査によれば、11世紀の遺構が確認されており、この頃までは存続したよう
である。
しかし、1050年前後の前九年の役の影響で秋田城介が城に常在しなくなった
ため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられている。
前九年の役
平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役。
陸奥国の土着の有力な豪族安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に
柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為1051年(永承6年)
陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、
両者の間に戦闘が勃発した。
この戦闘では秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、結果は安倍氏の圧勝で
敗れた登任は更迭され都へ帰った。
そこで朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図るが頼義が陸奥に
赴任した翌1052年(永承7年)、後冷泉天皇祖母・上東門院の病気快癒祈願の為に
大赦(だいしゃ、恩赦のひとつ)を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることと
なった。
8世紀の奈良時代、中央政府は、東北地方の蝦夷軍事的制圧を積極的に進め、
708年に出羽柵(でわのき)という城柵を庄内(酒田)に作り、現在の山形・秋田を
出羽郡とし、後、712年には出羽国へ昇格させた。
中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、733年、出羽柵は秋田村高清水岡に
移設し760年に秋田城に改名。
続日本紀には、780年(宝亀11年)8月23日、秋田城へ派遣された鎮狄将軍
(ちんてきしょうぐん)安倍家麻呂の具申(ぐしん)に対して朝廷から「秋田城は、前
将軍や宰相(さいしょう)が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したこと
が見え、760年頃に秋田城へ機構改変したことを裏付ける。
このときの安倍将軍と朝廷の応答において、秋田城は蝦夷による攻撃にさらされ
るため放棄すら検討されたが、専任国司1人と軍兵を派遣することが決定され、
かえって防御が強固となった。これにより、次官国司である出羽介が秋田城介
(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった。
804年(延暦23年)、蝦夷の反乱が激しくなり秋田城は停廃されて秋田郡となった。
これは、秋田城に置かれていた国府が別の場所へ移転したことを意味すると見ら
れている。
秋田城は、蝦夷対策のため完全に停止されることなく、出羽北部の軍事・行政
拠点として存続した。
878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)の際は、俘囚側が
秋田城を占拠する事態に至り、鎮守将軍として派遣された小野春風の条件提示
により反乱側との妥結が成り、秋田城が回復された。
939年(天慶2年)にも俘囚が蜂起し、秋田城が攻撃を受けている(天慶の乱)。
このように、秋田城は被害を受けることが多かった。
発掘調査によれば、11世紀の遺構が確認されており、この頃までは存続したよう
である。
しかし、1050年前後の前九年の役の影響で秋田城介が城に常在しなくなった
ため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられている。
前九年の役
平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役。
陸奥国の土着の有力な豪族安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に
柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。
11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為1051年(永承6年)
陸奥守藤原登任(ふじわらのなりとう)が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、
両者の間に戦闘が勃発した。
この戦闘では秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、結果は安倍氏の圧勝で
敗れた登任は更迭され都へ帰った。
そこで朝廷は河内源氏の源頼義を陸奥守とし、事態の収拾を図るが頼義が陸奥に
赴任した翌1052年(永承7年)、後冷泉天皇祖母・上東門院の病気快癒祈願の為に
大赦(だいしゃ、恩赦のひとつ)を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることと
なった。
秋田県民は蝦夷だったのです。
随分、美形な異民族だったわけです。
えっ?わたしですか。
お察しの通り、もちろん秋田美人ですよ。
以後の質問は受け付けません。
先生が秋田弁は1000年前の標準語と言っていました。
縄文文化の花咲いた秋田は豊かな土地だったのでしょう。
本荘市石沢出身です。
鮎瀬地区に征夷大将軍、坂上田村麻呂様が弓を落として付いたという地名があります。
残念ながらその地名は失念しましたが。
故郷を離れて40年近くもなりますと忘れてしまうことが多く悲しいです。
中学の時に後三年や前九年の地名がまだ残っていることを知って感激しました。
最近フェリス女学院出の若いお笑い芸人が、坂上田村麻呂の子孫だと知って懐かしく思った次第です。
このブログを楽しく拝見しています。
これからもよろしくお願いします。