菅江真澄(すがえますみ)宝暦4年(1754年)~文政12年7月19日(1829年)
江戸時代後期の旅行家、博物学者。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。
1811年、久保田藩を訪れた真澄は、藩主の佐竹義和から出羽六郡の地誌を作ってほしい
と頼まれ久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、久保田藩の地誌の作成に携わり、
その後は久保田藩領から外に出ることはなかった。
菅江真澄の随筆《水の面影》の一節に土崎寺内周辺の状況を、地誌風に書き残したと
されるものがあり、「日和山」についての記述がある。
「日和山」とはどこなのか。
いろいろ調べてる方々も多いようだが。
日和(ひより)とは天候のことであり、土崎で天候を見るのは船の往来にかかわる
重要なこと。
秋田孝季が書いた「東日流六郡誌絵巻」には「飽田日和見山城跡」というのがあり、
「飽田」とは現在の「秋田」のことで今は寺内から土崎にかけての地名。
地名研究賞を受賞された南波氏によると「日和山」(法政大学出版局、昭和六三年)
において
『日和山は、千石船時代に日和見をしたために名づけられた小山で、(中略)
入港船の目印ともなり、頂上には方角石の外に、大樹があり、祠・灯篭・塔等が
建てられている所もある。』
とされ、穀保町にある虚空蔵堂(こくぞうさん)で旧藩時代にありては此の丘上に
竹竿を設けて燈火を掲げ、以て夜間舟行の便に供したとしていることから、
そこを「日和山」とする説が土崎史談会などで強いようだ。
しかし、土崎神明社の近くに「日和見小路」があったことや、神明社の神主が
「ここは日和山であり、今でも例祭の前夜、日和まつりを行っている」」と
言っていたという話もあり、神明社の場所が「日和山」だとする説もあるようで。
孝季が「飽田日和見山城跡」と記したのは「秋田城跡」つまり現在の高清水の
丘のことではないかと。
《水の面影》によると両津八幡宮の記述がある。
現在も両津八幡神社として寺内大畑にある。
想像するに、雄物川を挟んで両岸が港だったようで、土崎湊と勝平浦。
大型船を勝平沖に停泊させ土崎に小型船で積荷を運んだようなので、言わば港が2箇所。
それで両方の港の守り神として両津八幡。
個人的推測だけどね。
真澄の指摘によれば両津八幡神宮の裏側が秋田柵址。
旧秋田城址であり、日和山であったと。
神明社の神事で日和をまつるのは穀保町のお旅所が日和山のすそ野に当たるだろうから
日和をまつってもおかしくはないだろうと。
これは個人意見ね。
寺内から土崎にかけて寺が並んでる。
佐竹が久保田城建築で土崎の住民をごっそり千秋に移動させ、寺内の寺も半分以上
現在の寺町に移動させたと。
その寺の並びをみると寺内から神明社のあたりまでで、神明社の北も土崎のはずなのに
寺はほとんどない。
もしかして神明社のあたりが昔は山でそこまで寺を並べたのかもと。
古い土崎の絵では湊城らしきものが山の上に建ってるし。
神明社の宮司が言った「神明社の地が日和山だ」というのが本当なのかもしれないと。
秋田城が日和山の上にあり、その日和山が見える丘として湊城の丘が「日和見山」と
呼ばれてたという可能性もあるのではないだろうか。
日和山から日和見山に行く道が山道通りだとすればつじつまが合いそうで。
まぁとにかく、「日和山」だの「日和見山」だの「日和見小路」だの、聞き覚えのない
名称が見えただけで新たな発見の喜びだな。
江戸時代後期の旅行家、博物学者。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。
1811年、久保田藩を訪れた真澄は、藩主の佐竹義和から出羽六郡の地誌を作ってほしい
と頼まれ久保田城下に住み、藩主とも親交を持ち、久保田藩の地誌の作成に携わり、
その後は久保田藩領から外に出ることはなかった。
菅江真澄の随筆《水の面影》の一節に土崎寺内周辺の状況を、地誌風に書き残したと
されるものがあり、「日和山」についての記述がある。
「日和山」とはどこなのか。
いろいろ調べてる方々も多いようだが。
日和(ひより)とは天候のことであり、土崎で天候を見るのは船の往来にかかわる
重要なこと。
秋田孝季が書いた「東日流六郡誌絵巻」には「飽田日和見山城跡」というのがあり、
「飽田」とは現在の「秋田」のことで今は寺内から土崎にかけての地名。
地名研究賞を受賞された南波氏によると「日和山」(法政大学出版局、昭和六三年)
において
『日和山は、千石船時代に日和見をしたために名づけられた小山で、(中略)
入港船の目印ともなり、頂上には方角石の外に、大樹があり、祠・灯篭・塔等が
建てられている所もある。』
とされ、穀保町にある虚空蔵堂(こくぞうさん)で旧藩時代にありては此の丘上に
竹竿を設けて燈火を掲げ、以て夜間舟行の便に供したとしていることから、
そこを「日和山」とする説が土崎史談会などで強いようだ。
しかし、土崎神明社の近くに「日和見小路」があったことや、神明社の神主が
「ここは日和山であり、今でも例祭の前夜、日和まつりを行っている」」と
言っていたという話もあり、神明社の場所が「日和山」だとする説もあるようで。
孝季が「飽田日和見山城跡」と記したのは「秋田城跡」つまり現在の高清水の
丘のことではないかと。
《水の面影》によると両津八幡宮の記述がある。
現在も両津八幡神社として寺内大畑にある。
想像するに、雄物川を挟んで両岸が港だったようで、土崎湊と勝平浦。
大型船を勝平沖に停泊させ土崎に小型船で積荷を運んだようなので、言わば港が2箇所。
それで両方の港の守り神として両津八幡。
個人的推測だけどね。
真澄の指摘によれば両津八幡神宮の裏側が秋田柵址。
旧秋田城址であり、日和山であったと。
神明社の神事で日和をまつるのは穀保町のお旅所が日和山のすそ野に当たるだろうから
日和をまつってもおかしくはないだろうと。
これは個人意見ね。
寺内から土崎にかけて寺が並んでる。
佐竹が久保田城建築で土崎の住民をごっそり千秋に移動させ、寺内の寺も半分以上
現在の寺町に移動させたと。
その寺の並びをみると寺内から神明社のあたりまでで、神明社の北も土崎のはずなのに
寺はほとんどない。
もしかして神明社のあたりが昔は山でそこまで寺を並べたのかもと。
古い土崎の絵では湊城らしきものが山の上に建ってるし。
神明社の宮司が言った「神明社の地が日和山だ」というのが本当なのかもしれないと。
秋田城が日和山の上にあり、その日和山が見える丘として湊城の丘が「日和見山」と
呼ばれてたという可能性もあるのではないだろうか。
日和山から日和見山に行く道が山道通りだとすればつじつまが合いそうで。
まぁとにかく、「日和山」だの「日和見山」だの「日和見小路」だの、聞き覚えのない
名称が見えただけで新たな発見の喜びだな。
石巻の日和山公園を思い出してしまいました
震災の時はそこに避難された方が多くいたのではないかと思います
20年くらい前に行った時の記憶では
石巻の海が一望できる小高い丘って感じでした
海運を生業とする土地では大切な場所だったんじゃないかと思われます