幹事さんのひとりごと

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壱騎町

2013年08月08日 | ひとりごと
壱騎町の町名の由来とされる「一騎当千の武士が住んでた場所」。

「一騎当千」とは。
一騎で千人の敵を倒すほどの強さを表した言葉で、武士の強さを
たとえた言葉だが、転じて人並みはずれた能力や技術を持つ者にも
用いられるようになった。
室町時代ころから使われるようになった言葉で、仏教の聖典にある
「一人当千」が語源とも言われる。

その「一騎」。

昔の戦国時代の戦いは「一騎打ち」が主流だったそうで。
武士は馬に乗り、お互いに名乗りあってからの戦い。
馬上からの弓の打ち合いに始まり、矢が尽きて刀を合わせる。
刀は刃こぼれして人を切れるものじゃなくなるんだと。
もちろん、矢を打ち合っても鎧の上からまともに刺さることもなく、
刀で簡単に切れるような鎧兜でもなかったようだ。
馬から落として最後の決着で切り合うのが脇差なんだと。
脇差で首を切るのが本来の切りあいだったようだ。

時代劇に出てくるような、つわものがばったばたと人を切るって
どう考えても刀がもたないし、そんなに多く切れるような刀じゃないし。
ましてや鎧の上から切られてその場で致命傷って無理だろうな。

まぁ有名な武将が戦の先陣で突っ込むはずもないけどね。

それはともかく・・

一騎当千の武士の住んでいた場所。

壱騎町は湊城の周り。
居住区としては湿地で向かない。
城の堀の周りに武士の居住区ってあんまりないだろうし。
城がなくなってからは畑に開放してもらったようだし。

城跡だから武士というのも安易かもね。

こんなことを言えば町名つけたころの大先輩たちに怒られるかな。
それより存命かどうか・・・


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7 コメント

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さすがに (夫婦岩)
2013-08-08 19:51:39
ご先祖様でしょうね…

土崎の町名って、あんまり安東に由来してる名前がないような?

佐竹か田村麿か…

揉み消されたべが?(笑)
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安東の時代 (幹事)
2013-08-08 23:30:58
ここは土崎じゃなかったからね。
寺内から相染まで秋田湊だったし。
そのころあったのは馬苦労町くらいだろうか。
一般住民が住めるようなところじゃなかったみたいだよ。
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町名 (幹事さんの愛読者)
2013-08-09 00:03:37
日本史で幕府の武士でも旗本、御家人の違いを習った方はいらっしゃると思いますが、地方でも、久保田藩と、毛利藩は士分でも区別があったことで知られています。ちなみに薩土は、藩士と郷士で区別されています。久保田藩は、手元に資料がないので正確ではありませんか、藩主の親族である一門、一門の分家、歴代の家臣、また、関ヶ原前後に武功があった、渋江氏(旧県立図書館、県立会館)、梅津氏(分家と合わせて、明徳図書館と国学院高校、以上知行地ではなくつねに住む自宅)、等があります。逆に士分でも、50石(未確認)以下は不肖、100石(未確認)以下は駄輩と武士といえども、あまり評価された呼び名ではありません。その名称の内、250石以下を一騎と称しました。久保田藩では中級以上です。本来、一騎と呼ばれる武士は中上級武士であり、文字通り騎馬武者です。話はズレますが、伊藤博文、山県有朋は萩には帰りたがらなかったそうです。中央政府では総理大臣でも、萩では足軽の伊藤、山県でしかない。本題に戻り、久保田藩においては一騎は、それなりの武士の家格です。ただ江戸時代の図面にいっき町とあります。考えられるのは、久保田藩の武士が寛容であった、土崎のいっき町は私称であり、久保田藩は関知していない。因みに、いっき町の隣ががつき町というのは、安藤氏の城があり重臣が住んだ、との伝説ですが、神明社跡地の城は、接待用、重臣が一時的に住んだ目的のようです。ということで、いっき町は私称てまはないかと私は思います。
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全然関係ないですが (るーと356)
2013-08-09 09:41:12
馬苦労町というストレートな町の名前がおもしろいなぁ~と
東京にも「馬喰町」ってあるけど、「馬喰」「博労」ともいって馬や牛の良し悪しをみる人、馬や牛の売買をする人のことをそういうとか・・・
だから「馬喰町」っていったら馬や牛の売買やってたところですよね
馬苦労っていうのも字面や音からいっておんなじようなところだったのかな?城下に構えてるところが多かったようですよ

違う話ですんません
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土崎商家の移転 (幹事さんの愛読者)
2013-08-09 21:47:23
土崎史談会の資料を、無断で簡略して転記します。佐竹氏が秋田に転封した際、土崎から久保田城下に強制移住させた町です。○湊穀丁→現大町の一部。○肴町→現大町の一部(上肴町、下肴町)。○酒田町→現旭南二丁目。○新城町→現旭南二丁目。○後城町→現旭南二丁目(城町)。○前城町→旭南二丁目ほか(馬口労町)。○鍛冶屋職人町→大町および旭南の一部(上鍛冶町、下鍛冶町)。湊大町→大町の一部(茶町、但し土崎に大町なし)。以上です。
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馬口労町 (幹事)
2013-08-10 10:50:35
だっけ?
町名は町内で決めた名前。
由来も決めた方たちが言い出したことのはずで。
言い伝えや聞き覚えが基になってるのかと。
永覚町の永覚坊ってどこの寺にいたやつなのか疑問だし。
葦町が肴町になった理由もよくわかんない。
清水町だって清水が湧き出ていた場所はいろいろあったはずだから、
そこだけじゃなかっただろうし。
まぁ本来は蝦夷が暮らしてたところだから、そのころの地名があってもいいとも思うけどね。
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Unknown (夫婦岩)
2013-08-10 14:33:03
馬口労町だすな。

新町の由来見れば、えびだの小魚だのはやざっこだのと出てきますね。
専売権与えられたんだすっけか?
新町が本来なら肴町?みたいな感じで(笑)

永覚坊も気になる…
安住の町に辿りし永覚坊、って灯籠さ書いてあったけども。
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