幹事さんのひとりごと

秋田市 土崎港 壱騎町一区 壹友会 非公式ブログ 語ったもん勝ち

神社について2

2013年07月13日 | 暇人の無駄知識
古四王神社

紀元前97年~紀元前29年ころ在位していたと言われる「崇神天皇(すじんてんのう」
の時代、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、
吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人の
四道将軍(しどうしょうぐん)がいた。
大彦命が蝦夷を平定するため北陸道に派遣された折、北門の鎮護のために
武甕槌神(タケミカヅチ)を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀り、継いで
655年~661年に在位した斉明天皇(さいめいてんのう)の時代に阿部比羅夫
(あべのひらぶ)が秋田の地に来て自らの祖である大彦命を合祀(ごうし)し、
越王神社(古四王神社)として創建したとされている。
新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に胡四王、古四王、越王、巨四
王、高志王、腰王、小四王、小姓等という標記の神社が多数分布することから、
越の国(福井県敦賀市から山形県庄内地方)を中心に北方に広がった阿倍氏の
祖神と蝦夷の土着の神が同一視されたものとして、かなり古くから信仰された神で
あろうと推察できる。
坂上田村麻呂が802年(延暦21年)の蝦夷討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられ
ている田村神社が境内に存在する。

坂上田村麻呂

陸奥国での度重なる蝦夷との激闘、793年には阿弖流為の率いる蝦夷軍を破り、
延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を
指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。
延暦20年(801年)に遠征に出て蝦夷の討伏を報じ、いったん帰京し翌年、確保し
た地に胆沢城を築城し、延暦22年(803年)には志波城を造った。
延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の遠征を期した。
戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には朝廷組織の最高機関の太政官の
官職の一つである参議に列した。
大同元年(806年)に中納言、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられ、弘仁
元年(810年)に大納言になった。

田村麻呂縁の地として、神社や巨石、大木など田村麻呂にまつわる場所が東北に
1千箇所以上あることや、蝦夷討伐遠征が3度程度であることから、福島を中心に
岩手側より他には行けないだろうと推測。
秋田の田村神社も伝説の域を出そうにもない。

古四王神社 秋田市

御祭神:大毘古命(おおひこのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
氏子 (幹事さんの愛読者)
2013-07-15 13:28:03
幹事さんお疲れ様です。南幕洗川は旧寺内幕洗川尻二区ですが、港祭りに参加されているということは、神明社の氏子ということでしょうか。ただ旧国道沿いの南幕洗川の家の塀際に古四王神社の御幣がありますので、古四王神社の氏子かもと考えられます。因みに、寿光園のある寺内幕洗川一区はあくまで古四王神社の氏子で港祭りには参加しないのでしょうか。
返信する
氏子は (幹事)
2013-07-16 00:10:54
氏神を信仰する仲間の集まりだろうから、地域を区切ってしまうものでもないだろうと。
ちなみに、相染五区では神明社と護国神社の氏子として奉納金を毎年支出してるみたい。
また、キタスカの向かいの佐竹所縁のなんとか稲荷を町内の神社として祀ってるみたいだし。
どこに所在する町内だからそこの神社の氏子じゃなきゃいけないというものでもないだろうと。

曳山奉納については神明社の氏子として奉賛会に加盟していれば
奉納が可能ってことで、寺内の表記をはずして南幕洗川として
奉納することが奉賛会で認められたってことのようです。
若松もしかりですね。
栄町は将軍野地区が大きいので町内で反対意見が多く、曳山はあきらめたみたい。
そのもめてたときは神明社では町内数が増えすぎだとして参加に反対してたようだけどね。
返信する

コメントを投稿