月下の道標
光と闇が映し出す心象的夜の風景と日常的自然風景







4月20日のライドです。
この日は少し疲れていたので養老町へは行かず垂井関ヶ原町をライドしました。
垂井の長閑な村落を走り抜け、美濃国分寺跡を目指します。







道は少し荒れていますが
鳥や蛙のなく声が道の先へと誘います。



昭和3年の御大典記念石灯籠。垂井町内のあちこちでよく見かける御大典記念。







今回は石道標の指す左方向(岩手・大滝)へ進みます






美濃国二宮・伊富岐神社。付近には弥生時代の土器や古墳が多く発見されています。
古代から人の営みがあり強い権力者がいたことが知られています。
南部には一宮の南宮大社も鎮座しており製鉄と深い関連があるこの地域は重要な拠点だったことが伺えます。



相川北部扇状地の高燥地では古くから農耕文化が滲透しており往時の風景を偲ばせる。



古墳に見えましたが何も記されていませんでした。



こちらは喪山古墳。
天稚彦(あめのわかひこ)の墳墓と伝えられています。
古墳頂上は戦争で亡くなられた方々の共同墓地になっているようです。

垂井町及び周辺は古墳が多い。いわゆる富豪層の喪葬儀礼の状況や特質などは明らかにされていますが
私は一般的な庶民の喪葬にも興味があります。(むしろこちらのほうが)
基本的には土に穴を掘って遺体を埋める土坑墓が主流だと思いますが、
例えば京都では風葬も行われていて庶民は山野や河原に死体を運んでそのまま捨てるといった遺棄葬が普通でした。
また、浄土教が普及すると農民は自身の営農する田畑や屋敷などの一等地に死者を埋葬し墓地をつくることで代々土地を手放さないようにしていた地域もありました。
このようなことから個人的に墓碑を造ることがなかった庶民の埋葬地、遺棄地を見つけることは難しいですが
「野辺送り」の言葉から「野」のつく知名が風葬地だったというように、
地名から想定して探してみてもおもしろいかもしれません。
垂井町(旧表佐村)では大正7年に合同墓碑を造っています。それ以前の習俗や死生観に興味が湧いてきます。
ブログの内容が脱線しました。笑







画角の狭い手持ちのカメラでは収まりきらない広さと砂利敷でサイクルシューズでは敷地内を全て見学することができませんでした。
ヤマト勢力(中央政府)の美濃国の関心の高さと早い段階でその傘下に入れたことを示していることがわかります。


体力つくりではじめた自転車ですが、思わぬ方向へと関心が向かっています。











コメント ( 0 )


« 養老の滝 記事一覧画像一覧フォロワー一覧フォトチャンネル一覧 養老・関ヶ原... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。