マリアヨハンナさんのブログ

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11月17日(日)講演会「明日の教会をめざして」マタタ神父様、サリ神父様

2013年11月16日 | 信仰と祈り

 本当に良い講演会でした。 新しい視点にたって、時代にあった在り方を考えるいい機会でした。 私達日本人以上に、日本という国を客観的に見て捉えて、真剣に今後のアドヴァイスをいただけて有難かったです。 時間が足りなくて、お二人のお話しを続きを聞きたいと思いました。

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「明日の教会をめざして~新しい福音宣教に向けて」をテーマにヨーロッパ以外の国々から日本に来られている二人の神父様のお話を分かち合います。マタタ神父様(淳心会)はコンゴ民主共和国出身で、『聖書と典礼』『福音宣教』『こじか』などを発行しているオリエンス宗教研究所の所長。サリ神父様(イエズス会)はインド出身で、上智大学神学部の准教授。ともに現代の最前線でのキリスト教のあり方を研究しておられる立場から、刺激に富んださまざまな提言をご披露くださいます。

どうぞ、ご期待ください。(カトリック関町教会HPをご覧ください。)

http://www.sekimachi-ch.com/schedule/2013/10/21-2447.html

 普段は、「ミサに与ればいいだけ」と思っている信者さんも多いようですね。 カトリック教会の大きな変革である。”第2バチカン公会議”のことを知らない、理解していないという方も、一般的に多いようだし・・・。 もう、50年もたっているのに、なかなか、教会が変わっていかないのは、何が問題なのかな?

 講演会を通して、もっと、深く、広く、多面的に信仰とは何かを考えるきっかけになるといいと思います。

 公会議の後、カトリック教会は、常に時代を見て、時代にあったように変わって行っています。 指導者によってその歩みは遅かったり、速かったり・・・になりますけれど。 ただ、中心になる「キリストのように考え、キリストのように行い。キリストのように愛する」というのは、普遍的です。

 個人的に良く感じるのですが、洗礼を受けて信徒籍を置くだけで、もう、一人前のクリスチャンになったと思っている方々もいる。 年数が経てば経つほどに、その思いに凝り固まってしまうことも・・・。 でも、本当は、クリスチャンの使命は、洗礼を受けた後に、どのように生きて、社会、世界と関わっていくことなのかじゃないのかな・・・と思うのです。 どれだけ年数がたっても、何時も最初のスタート地点と同じ思いを持って、信じ、求め続ける事なのではないかな・・・と。 誰が「先」でなく「後」でなく、年上でも年下でもなく、いつも「一緒(共)に」手を取り合って、共同体として歩み、進み、周りに働きかける事ができて、初めて本当に信仰を生きているって云えるのじゃないかと・・・。

 私の実家は仏教(真言宗)だけど、あまり、宗派の話しを詳しく聞いたことがない。 一緒にお祈りをするのは、お盆とか、法事とかに集まるけれど、お坊様が祈っているだけで、祈っている言葉の意味はちっとも判らないし、内容の解釈について講話など聞いたことがない。

 親戚には、日蓮宗の人たちがいるけれど、話に聞くと、信徒が定期的に皆で集まって一緒に祈り(お経?)を唱和して、勉強会をしているらしい。 とっても勢いがあって、叔母が亡くなった時などは、祭壇の前にずらっと並んで数珠を持って一斉に祈り始めた時には、”すごいな”と圧倒された。 ただ、部外者にはお経の言葉はちっとも意味が解らなかった。

 カトリック教会でも、私の小学生までは、ミサをラテン語でしていた。 一部のお祈りが日本語であったが、文語で意味不明な言葉が多かった。  聖歌は、主にヨーロッパの曲を日本語(文語)にしたものだった。 それがミサの歌も日本語のミサ曲や聖歌が少しずつ増えて・・・。 そして、お祈りも口語体に代わってきた。 これが、子どもながらにも、第2バチカン公会議以降に目に見えて判った変化だった。 以前のお祈りは、リズムがあって耳にはなじんで良かった。 今のお祈りは、よく意味が判って良くなった。 歌もラテン語のグレゴリオ聖歌も日本語の典礼聖歌も、若者が作って歌うようになったフォークソング的な聖歌もどれも良さがあって、ミサに変化が出来て楽しい。 古いものも、新しいものもそれぞれに意味があって良いと思う。

 神学も、昔は、修道者や研究者だけのためのものだったけれど、今では、一般の人が自由に学べるようになった。 ただ、一方的に話を聞いてそのまま知ると言うだけでなく、それぞれが考えて、書物を読み、さらに、司祭、修道者ら専門家の助言のもとに、積極的にアイデアを出して活動できるようになった。 けれども、信徒のほとんどは、受け身のままで、何か大きなもの(力)から審判を下されるのを畏れるのか、小さな部屋(殻)の中から外を眺めているという感じになっているのが現状のようだ。

 新しく洗礼を受けた方に多く見られるのは、受洗するまで積極的に共同体に馴染もうと努力し、キリスト教の沿革を学び、希望に燃えて活動に参加されるのだが、洗礼を受けてしまったら、人間的な弱さに負けてしまって、脚が遠のいてしまう。 たいてい、人間関係のもつれ・・・。

 最近顔を見ないのでどうしたのかな?なんて思って、手紙を書いてみたり、祈っていると、返事がきたり、偶然、その人に出会ったりする。 教会に来なくなった理由を何気に耳にすることになる。 大抵、何気ない「言葉」のやり取りで、相手に不信感が募り、自分を守ろうとするあまり、逃げてしまっているようなのです。 受洗前までは、何を言われても「そうなんですね」「わかりました」と謙虚な気持ちで受けられたことが、段々と自分の生き方、考え方と違っていると疲れてしまう。

 クリスチャンと言っても、決して「完璧な人間」ではないのだから、それぞれの生きてきた環境が違えば、考え方も違う。 対処法も違えば、言い方や捉え方も違う。 全ての人がロボットかクローン人間のように全く同じなんてあり得ないのだから、どこかで適当に折り合いをつけるとか、聞き流すとか、心に留めておけば良いように思う。 家族の間だって、決して完璧に理解し合えないのだから・・・って思えばいいのだけれど。

 究極は、『心の広い(容量の大きい)』人間になることかな?

 こんなところで足踏みしていると、結局、いつまでたっても「キリストのように」生きる、愛するなんて難しいなと。でも、無理は禁物。 それぞれの事情ってのがあるって思います。 無理のない範囲で少しずつ関わっていく努力をするといいのだけれど・・・。

 長い信徒歴のある方の中には、信徒籍のある教会の中の活動を全くせずに、他の教会の気にいった神父様や講話だけに参加しているという方も多い。 そこで積極的に活動をして奉仕しているのであればそれは大いに意味のあることだと思う。 学ぶこと、新しいことを知ることは素晴らしいことだと思うが、学んだことを実践して初めて、学んだことが生きてくるのじゃないかなと思ったりもする。 知識だけをいくら積んでも、実践がなければ意味がないことのように思える。

 神父様との相性というのもあるかもしれない。 しかし、相性が合わないからという理由だけで、教会に来なくなってしまったり、神父様の良くない噂をしてしまうと言うのも問題のように思える。 自分自身がどれだけ完璧なキリスト教徒であるというのだろうか? 受け身でいる必要もないけれど、「理解されること」ばかりを要求して、果たしてどれほどえに神父様の立場に立って「理解している」だろうか? 神父様というのは、一方的に信徒からの要求に応えるだけのことが多いように思う。 神父様だって人間。 要求したら、その分だけ(教会共同体に)奉仕をして差し上げるのが信徒の役目ではないかなと思える。

 教会の中も、世間一般もそれほど変わりはしない。 問題点も世間と同じように多い。 けれど、数は少ないけれども熱い思いを持って、積極的に生き、人々と共に生きよう(愛そう、助け合おう)という人たちに、世間一般よりもちょっと多く出会う確率が高い。 それが、私が教会に通って奉仕をしようと思う理由なのです。 血のつながった家族と同じくらい愛せる人たちを探せるのです。


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