マリアヨハンナさんのブログ

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♪人々の愛、出逢い、支え合い、未来の平和と幸福を願って♪

Rorate Caeli

2015年11月29日 | 同窓会・地域情報
Rorate Caeli


待降節の間だけ歌います。
カトリックの伝統曲です。
「天よ、露を滴らせ、雲よ、義人を降らせよ。」
毎年、待降節(アドヴェント)になると関町教会でも2回は歌っています。今日も全体合唱しました。
ラテン語ですが、毎年歌っていくうちに覚えていただけるのではないかと思っています。


ほかのバージョンで・・・
Rorate Caeli

アヴェ・マリア(カッチーニ)編曲吉松隆・ピアノ田部京子

2015年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
アヴェ・マリア(カッチーニ)編曲吉松隆・ピアノ田部京子


今日は思わぬことが起きた。
 以前から、教会でお世話になっている高齢のご夫妻を月1回だけ平日(金曜日)ミサの送迎をさせていただいている。
歩いて数十歩の近いところに住んでいらしたのだが、昨年、お二人とも高齢になって、体調がよくないことがおおいので、どちらかが倒れると共倒れになってしまうということで、高齢者の自立支援型の施設に転居された。

 ご主人様の持病があって体調が安定しないので、通常の主日ミサには、長時間になって疲れてしまうし低肺の補助の酸素を常に持っているので邪魔にもなるし、足りなくなるのが心配だと言うので、平日ミサなら短いからということで、そのようにしている。
奥さまは、もともとカトリック信者ではなかったのですが、長年、御主人を支えていらしゃって、今後の万一の時のご相談を受けている時に、御本人に確かめたところ、洗礼を受ける意思をお持ちだったので、1年前に受洗されました。月1回の高齢婦人達の集まりにも、喜んで欠かさず参加されるようになった。

 今日も、いつものようにミサの送迎に伺って、ミサ後にちょっと話しこんでしまったので、施設での日常健康体操に遅れるので、ちょっと慌てていたら、奥さまが指を車のドアに挟んでしまうというアクシデントが起こった。
見る見るうちに紫色に変色して腫れてきた。

 指を車のドアに挟んたことを20年以上前に体験したが、それはそれは驚くほど痛いもので、数日間痛みが収まらないどころか、痛みで眠ることさえできなかった。指先というのは非常にデリケートなんだとつくづく感じたのだった。
 車に乗り込む時に、体をささえるために、扉の外枠につかまっていて、他の人がうっかりドアを閉めてしまったのだった。
自身で閉めるのならそれほどしっかりと閉めることはないが、他人の場合は、全く見えてないのでしっかりと閉めてしまう。
そして、挟まれた方は、申し訳ないので、「大丈夫、大丈夫。平気だから・・・」と言ってやせ我慢をしてしまう。
これがいけない、すぐに、手当とか、痛みどめとか飲めば良かったという反省が、後々起きてくる。
 数日間、挟んだ指が「ズキン,ズキン」と音が聞こえてくるくらいに腫れて、本当に痛かった思い出がある。

 それで、「骨折はしてないかもしれないけれど心配ですし、挟んだ当初は、感じないけれども、後々から感じるのは半端な痛みではないので、すぐに御医者様に行きましょう!!」とご相談して、近所の整形外科に行った。
車で1分くらいのところにある病院は、普段は超満員で、なかなか、順番が回ってこないらしいのだが、今日は、午前の時間ぎりぎりに入ったせいか、ほかに待っている患者さんもいなかったので、レントゲンも先に撮ってと先生が気を回してくださって、費用を払って出てきたら、30分もたってなかった。
御蔭で、施設の昼食に間に合うこともできた。
神様が用意してくださっていたみたいな感じがして、二人で「神様に感謝ね」と言って戻ってきた。
幸い、骨折はなかった。微小なヒビがある時は、レントゲンに写らないこともあるので注意をするようにと言われて、とにかく痛み止めだけは出していただいた。

 私としては、やっと、教会のミサにお連れできるようになったのに、これが原因で、心配だからと今後、出られなくなったら困るなと思った次第。
マリアさまに祈るような気持ちで帰宅した。

自立型でも、高齢者施設にいるので、職員さん達にも良く説明をして、気を使って見守りをしていただけるのは良かった。
痛みも少なくてすぐに治るように祈りたい。




ギターのこんな演奏はいかがですか?
Ave Maria Giulio Caccini / Аве Мария Джулио Каччини


調べてみると、「ソ連の作曲家・リュート奏者 Vladimir Fyodorovich Vavilov (1925-1973)によって1970年頃に作曲された曲で、彼自身によって1972年に出版およびMelodiyaレーベルに録音されています。これがなぜか、彼の死後、Cassini作とされてしまったようです。」らしいです。

Libera In Concert

2015年11月05日 | 信仰と祈り
Libera In Concert

歌は、何よりの祈りですね。

Libera 自由という言葉が素敵です。
多くの人を自由に解き放つような声と演奏で、少年たちの透き通った声から、純粋な心を感じます。
多くの人が、世の中のしがらみから解き放たれて、自由に生きられるといいですね。

ありのままに与えられたものだけで生きる

2015年11月04日 | 信仰と祈り

秋らしい毎日ですね。
”天高く馬肥ゆる~”といいますけど。
食べ物もおいしくて、種類も豊富。
こんなにいろいろなものを食べられる生活できていることは、”しあわせ”です。
このようなお恵みをくださる神様に感謝。


我が家の柿の木は、今年もいっぱい実をつけています。
枝を毎年切るだけで、何にも手入れをしなくてもこ~んなに大きな実がつくなんて、ただただ驚き!
これも神様のお恵み。
願わくば、甘柿ならなお良かったのだけれど・・・。

冬中に実が少しずつ熟していくので、その間はお花がなくても庭は明るくて、毎日、鳥たちが実の熟れ具合を確かめに来るので、バードウォッチングもできるし。
わ~と何羽かで枝にとまり、1羽が少しついばんで、渋いと、嘴をちょっと震わせて枝にこすり、あきらめて皆で飛んでいく。
その仕草がかわいらしくって。
最後に熟れてくると、いろんな種類の鳥が、仲間皆でやってきて、思いっきり汁を飛ばしてつついて、食べていく。
聖書の中の「空を飛ぶ鳥を見よ。 播きも刈りもしないのに・・・。神様は、こんな小さなものも生かしてくださる。」
というところを思い出します。

柿そのものも、実は前の住人が植えたもの。
ただ、そこに庭があって、手入れもしないのにどんどん枝が伸びて、お隣の塀との境界線を越えると慌てて枝おろしをする。
それだけのところに、これだけの自然があって、日々、それぞれに生きていく。

人間なら・・・
いじめ。迫害。
パレスチナ人やシリア難民の人たちのことを思う。
人間というのはやっかいです。
誰かが、自分たちだけは正しいと言って、そうでない人を寄り分けようとする。
あるいは、ここまでは自分たちの土地だと言って、利益を供与するものだけで線引きして、それ以外の人々を追い出そうとする。
誰が最初に始めたのか判らないけれど、最初に誰かがしてしまった悲しい出来事を、次には、相対する人が奪還する。

本当は、すべてが、皆人類共有のものだと思うんです。
誰か特定の人だけのものじゃなくって。
たまたま、同じ親戚筋の同じ言語を話す人々が固まって部族を作ったのが最初だったとしても、最初はだれの土地でもなかったはず。
争い、戦争というのは、一部の人達の、利益の独占から始まって、決して、それは皆共通に利益を得られる仕組みにはならないのです。
同じような自然(神様)から与えられたものを、話し合って協力して均等に分けあい、多く得られた時はそれなりに、少ない時は誰かが独占するのではなくて、同じように分配してくシステムを、どうして何千年たっても考えられないのでしょうか?

そ~んなことを考えながら、庭をつくづく眺めています。



11月は死者の月です。
11月2日の《死者の日》ミサの祭壇いけばな当番でした。
今年も多くの知人、友人が亡くなりました。
今迄にお世話になった人々のことを思って祈り、昔の出来事の数々を思い起こしています。



♪ごら~んよ 空の鳥、野の白百合を。
 播きもせず、紡ぎもせずに 安らかに生きる。
 こんなに小さな生命にでさえ、心をかける父がいる。

 友よ、友よ、今日も称えて歌おう。
 全てのものに染み透る、天の父のいつくしみを!
[典礼聖歌集391番]