人の命というのは、本当にいつ終わるのか分からないもの・・・
18日、19日と関町教会の聖歌隊になくてはならない方が急死した。
待降節に入って、8日に朝7時のミサのオルガン奉仕をされ、9時から始まった「ゆるしの秘跡」に与り、9時半からのミサの聖歌隊の指揮をされ、いつもと変わらぬ一日を過ごし、なんだか、ちょっと疲れているみたいだなと声を掛けようと思ったら、帰ってしまったようで、姿が見当たらなかった。 夜、ちょっとメールを入れてみた。すぐに返信があったので、あ~元気みたいだなっと思った。
翌々日の火曜日は、聖歌隊の定例練習日。 誰より早く来て準備をされる方で、すっかりあてにしてしまっている私は、いつものように溜まった家の用事を済ませて遅刻して行った。翌週の聖歌の練習をしていたので、てっきり、彼女が弾いているのだろうと思っていた。 クリスマスの曲の練習に入ったら、交代して欲しいという声が・・・。 そこで、はじめて彼女がお休みだということに気がついた。 当日急に休むなんてめったにないことで、前々日のメールまでは、火曜日に話し合おうとか書いてあったので、よほど具合でも悪いのかなと思った。
数日後、もう一人の先輩から慌てた様子の電話で、「心筋梗塞で重体」と初めてわかった。
日ごろから、食べ物にも気をつけて、体操教室に毎週通い、合唱団や聖グレゴリオの家宗教研究所の聖歌隊の練習に行っているので、まず、具合が悪いと聞いたことがあまりない。まさかのことであった。 しかも、8日の主日は、本当に普段と同じだったから・・・。
15日の主日に5日間こん睡状態だということも、そっと、「他の人が混乱するから二人だけでね・・・」ということで教えてもらった。 それは、ある意味もう戻ってこないということの最後通牒みたいだった。
17日(火)。 母校のクリスマスキャロルというのが、とても素敵だと友人がいうので、一度は見てみたいと思って、静岡県裾野の学校前庭で「立ち見」の列に並んでいたら、携帯の振動音が・・・。訃報の連絡であった。
あまりにも突然、あっという間に天国に旅立ってしまった。
同時期に恩師が二人重篤な状態で、お一人(97歳)が、先に帰天され、10日、11日に卒業生皆で見送った。天寿を全うされた先生は、本当に温厚な方で、誰にも優しく接して下さった。
もう一人は、学長であり、洗礼を授けて下さった神父様で、卒業後に卒業生のための「聖書研究会」を開いてくださって、毎週木曜日、仕事の帰りに後輩と一緒に通った。 父が早く亡くなったので、同い年の神父様が、私にとっての第2のお父さんだった。 結婚式も挙げていただいた。 結婚後もその聖書研究にはしばらく通っていた。 その後、大学を退職されるので、「感謝する会」を企画し、卒業生全員に声かけしての盛大なパーティーをした。 その時に、先生が主催する集まりのチラシをもらい、年に5回くらい開かれる集まり<コミュニオン・ブレックファースト>に、時間の許す限り参加し続けた。 朝10時からのミサとそのあと、短いテーマについての話と分かち合いをお茶をいただきながら行っていた。 その後、時間のある時は皆でランチにも行った。 10月2日がお誕生日なのと、今年は司祭叙階50周年だと伺ったので、是非、グループ内でお祝いをしようと思って連絡をした。 それが、昨年、白血病になって治療を続けながらも、お役目のイグナチオ教会助任司祭のお仕事を9月半ばまで続けていらしたということ、9月の終わりに治療のために入院することが判った。 ほんとに驚いた。
その後、退院された先生は、急に痩せられて、杖をついてやっと歩いていらした。 声も力が入らないと言って、囁くような小さな声でお話しをされた。 それでも、なんとか元のように治るようにただひたすらお祈りをして・・・・・。 コミュニオンに参加していた方々や、同期の友人、後輩にも連絡をして、皆で一緒に祈っているところ。 さらに体調が悪化したとのことで、近所の修道院に転居。 急いで、後輩と一緒に会いに行った。 車椅子に座って、声はさらに小さくなっていた。 お茶を飲む時の手が震えている。 本当に悲しくなった。 それでも、何とか良くならないかとお祈りを皆でして・・・・。 それから1週間後、肺炎になってしまわれて緊急入院。 コミュニオンのリーダーの方が、もう、かなり重いらしいと・・・。 数日後に、面会したい人はいつでも病院に行っていいですよと連絡があったと、今は、一人で病院で治療を受けているところ。 個室に一人きりでいらっしゃる先生を見て、なんだかとても切なくなってしまった。 日本人なら、ご親族がお見舞いされるだろうけれど、アメリカ人の神父様には、親族は遠くにいらっしゃるので、足を運ぶとしたら、私達卒業生か信者の方々だけ。 皆に声を掛けて、今、行ける人はお見舞いをして、先生に励ましや慰めの言葉をかけにいくことにした。 目も見えているのかどうかわからないけれど、看護師さんが、「声は聞こえていますよ」というので、自分の名前を名乗り、声かけして、先生の細くなった腕や肩を皆でさすっていると、先生の眼差しが、急にはっきりして、声にはならないけれど、何か話をして下さる。 「先生、今まで私達のためにお祈りして下さったので、今度は私達がお祈りしますよ」って、細々ながら、毎日誰かが行っている。 私も次はいつ行こうかなと思っていたら・・・・・・
思いもしなかった人が、先に慌てて天国へ・・・。 聖歌隊、オルガン奉仕者の先輩は、洗礼名が「セシリア」という。 聖セシリアは、音楽をする人の聖人といわれている。 11月の聖歌隊の練習の時に、神父様から聖セシリアの聖画(オルガンを弾いている絵)を聖歌隊のためにといただいた。 先輩はとても喜んでいた。 それを、2階の聖歌隊の席の壁に掛けてということで、翌々日には、新宿の世界堂まで行って、ぴったりの額を購入しセットしてもらった。それを、壁に掛けたばかりだった。 通夜葬儀の間。神父様がその絵を彼女の写真の隣に置いて下さった。本当に先輩のオルガンを弾く姿を思い出した。 オルガンの席には、まだ先輩がいるのと勘違いをして、うっかり声を掛けてしまって、先輩でないことにハッと気がついた。
本当に屈託がなくて、優しくて、明るくて、あまりくよくよ考えずに前向きで、皆を和ませてくれる人だった。 ちょっとおっちょこちょいなところがあってと自分でいつも言っていた。 憎めない人だった。 教会の奉仕に関しては、本当にまじめで、穴をあけることなどなかった。 都合がつかなくて変わってもらいたいとお願いすると二つ返事で「いいわよ」といって下さった。 それで、その言葉に甘えて、いっぱい当番もお願いしてしまった。 なんとなく、そろそろ体調が気になる78歳だった。 8日の朝は、急に寒くなった日だった。 朝ミサの当番に入れなければ良かったと思った。
人数が少ないオルガン奉仕者が、さらに減って3人に・・・。 どうやって主日の朝7時ミサと9時半ミサをこなそうかと悩ましい。 皆、仕事や高齢の親を抱えているので、何時何が起きるかわからない。 教会には、音楽大学を卒業された方が数多くいるのに、奉仕をして下さる方はとても少ない。 折角、神様から与えられたタラント(才能)なのだから、少しお返しするつもりで、ご奉仕していただけるといいのだけれども・・・。
専門の学校を出ていなくても、ピアノやエレクトーンで伴奏が弾けるという人は、誰でもいいから・・・。
その意味では、亡くなった先輩は、何時も喜んで、ただひたすら大好きな音楽を愛し、学び、惜しげなく、素人の聖歌隊員に教えて下さった。 不満も言わずに・・・。 いつも楽しそうだった。 私も先輩のようにできるといいのだけれど・・・。
セシリア坪田千鶴子さん。 本当にありがとうございました。