1月22日いけばな当番でした。家の庭の千両がたくさん実をつけたのと、雪の日特別セールでとっても安くお花が買えたので豪華になりました。
≪神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう≫
神に向かって喜び歌い、救いの岩に声をあげよう。感謝に満ちて見前に進み、楽の音に合わせ神をたたえよう。
海は神のもの、神に造られたもの。陸も神のもの、神に形造られたもの。身を低くして伏し拝もう、私たちを造られた神の前に。
神は私たちの神。私たちは神の民、その牧場の羊、今日、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。
(詩編95ー1,2,5,6,7,8)
今日は、年間第4主日で、≪カトリック児童福祉の日≫・献金でした。
「カトリック児童福祉の日」は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが進められています。この日の献金は全世界からローマ教皇庁に送られ、世界各地の恵まれない子どもたちのために使われます。
いつの時代も、社会の犠牲になってしまうのは「子ども」ですね。
日本でも、「子どもには≪選挙権≫がない」ので、本来なら、最初に考えなくてはいけない子ども達の幸せのための環境作りが、一番最後になってしまっています。
世界を見ても、紛争のあるところでは、子どもが親を亡くし、飢え、病気を治すために先進国ならばすぐ手に入る薬がなくて、死亡する例が多く見られます。 テレビでもたびたび募金の呼びかけがされています。本当に心が痛くなります。
日本にいる私達の生活を考えると、かつては、物のない時代がありましたが、戦後の復興からは、国民の努力によって、多くの物資を生産し、或いは輸入して、良く良く考えると王侯貴族並みの物と食糧が溢れています。消費期限が過ぎた物が、冷蔵庫や食品庫に入っていたり、洋服ダンスや収納庫には、何年も着ないまま忘れてしまっていて、黴が生えたり色が褪せたりして、捨ててしまうなんてことも・・・。
私の子ども時代には、高度成長期にはいったばかりの頃だったので、母からは、常々「物を大事にしなさい」、「お米を一粒も残さないように(お百姓さん)に感謝して食べなさい」などと言われて、物も『もったいない』からと大事にとっておくように躾けられました。靴下の穴を繕ってボロボロになるまで履き、洋服はリフォームしながら着続け、セーターは少しクタクタになると、ほどいて新しい毛糸を足して編みなおし・・・。戦中戦後を生き抜いた知恵がいっぱいあって、それが当たり前みたいになって・・・。
その後に生まれた高度成長期以降の世代は、物があって当たり前で、なかったら買えばいいという感じに育っているように思います。
先日、同じ世代の友人と話していたのですが、私達は、物がなくてもあまり不服にも思わないし、無くなったら無くなったで何とかなるみたいに思える(我慢できる)けれど、物の溢れた時(環境)に育った人は、何が何でも物がないと不安で、我慢なんてできないみたいね・・・と。
悪天候の時(雪の日)にタクシー乗り場で並んでいる人に、意外に若者が多いとも・・・。
少し生活を見直していく必要があるかもしれませんね。