相撲に関しては具体的には無知で、興味もなくただその神道ベースの
精神論に思いを馳せているだけの人間なのですが・・・
貴ノ花が常に胸に掲げ、墨守しているというこの精神こそが
モンゴルからの出稼ぎ人たち(敢えて、こう申します)には
腑に落ちない点なのでしょう。
だから、強ければいい、勝てばいいということに走り、
無作法を恥じません。
(この画像の出処・・・原典が分からず、失礼します。分かり次第記します)
相撲音痴ながら、貴ノ花親方は、なにか大きなものと闘っているな・・・という
ことだけは感じ、それは間違いではなかったかもしれません。
貴乃花親方の闘いの相手は、単にモンゴル勢の品格を知らぬ傍若無人や、協会のみに
とどまらず、日本の、壊れそうな何かもっと大きなものに対してでは
なかろうか、とふと思われます。
私は、もし相撲に神事などもう言わなくてもいい、格闘技として面白ければ
ヒールがいてもいい、というふうに大勢が流れるのなら、それはそれで
やむなし、と思っています。あちらでも、こちらでも神事は絶えつつあり、個人で
神とのパイプを繋ぐ時代に、あるいはなったのか? とも。
格式ある神社さんでの、不祥事もあるいはその象徴かも、と。
神域に・・・・神域であるべきとされる場所に、余り思い入れをして美化しては、ならないのかもしれません。
あるいは、どこかで持ち直すのか・・・・。解りません。
ちなみに、「八州に耀く」の「八州」は、「やしま」とも読み、日本の古称です。大八洲(おおやしま)、とも申します。
参考
「天の下八洲の中に国はしも多くあれども」 /万葉集
誤変換他、後ほど。
状況は光へ至る道かも知れぬとは、私も
思うことがあります。
それほど今は闇が濃くなりつつある時代である、
という言い方もできますが。
ある大きな神域は、どうやら末期に近づきつつあります。
持ち直すのかどうか、私には解りませんがこのまま進めば本来の場は終焉。形骸化して、それでもしばらくは残るのでしょうが、数百年後にはもうないのかもしれません。
いつも楽しみに読ませていただいています。
最近の「志を抱く」「この道」の記事もそうですが、
今回の記事中にあった「個人で神とのパイプを繋ぐ」は、
最近、私が意識し始めた考え方そのものです。
あまりにもあまりなシンパシーにびっくりし・・・、
思い余って、お目汚しの投稿をさせていただきます。
さて不安に思うことの多い世の中ですが、
実は私は、光と希望あふれる未来を感じています。
例えば、「志を抱き」「その道で精進する」ことに誠実であれば、
いつの間にか「神との繋がりを得ている」。
そういう方々が、これからの時代に増えていく、というか、
そういう進化が始まっている・・・様な。
その未来は、現代によく見る三角ヒエラルキーなグループを持たず、
円形、あるいは球体の集合組織なのだと思っています。
つまり、個々人が「神と繋がっている」。
もしかしたら古代神道に近い形なのかも知れません。
「神事」であっても、職業(収入を得るための労働)になってしまうと、
神との関わりはなくなってしまいそうです。
職業的な「神事」に、「形式」は残っていても(それはそれで美しいのでしょうが)、
「神」は御成あそばされないと思います。
「神」・・・例えば宇宙の真理、高次の自我・・・それは自己の中に、
そして、帰依するべき他者の中にありそうです。
年の瀬に、大きな示唆をいただきました。 ありがとうございます。
個人で淡々と、持ち場を守っているしかなさそうです。
神仏とのつながりも、また。もはや神を"誰かに”あるいは”組織に”頼る時代ではなくなりつつ、あるのかもしれません。
阿吽の呼吸、ですか。外国人には難しいでしょうね。
元奈良市民の私は散歩がてらの東大寺で金剛力士像の厳しいがユーモアも感じさせる顔から、昔ながらの知恵なんだと当たり前に納得できるのですが。
勝負の世界に出てくるとは、エーッと思いましたが「角道」ですから貴乃花が「力人」と言っていた気持ちが分かりました。
相撲は昔も今もほとんど見ないのですが、何年も前、BSで白鵬のドキュメンタリー番組を見ました。
十代半ばでモンゴルを発つとき母親に「その国の水を飲んだらその国に従え」と言われたと。りっぱなお母さんだなあと感心し、その言葉を覚えている白鵬にも好感を持ちました。
不自由な日本語で頑張っている彼を応援している、部屋の近くの食堂のご主人も出てエピソードを語っていました。食堂の壁には白鵬の色紙が何枚も貼られ、最初の幼い字が達筆に変わっていくのを見て感心したものでした。外国人力士でもいいか、と。
それが…です。
you tubeに上げられている白鵬のだめ押し相撲の数々には驚きの連続。
協会は直接には注意せず親方を通してしていたとか。
親方も協会も白鵬には厳しく言えない姿勢が傷を深くしたとしか思えません。
大きな改革が必要と思いました。
相撲だけでなく、外国人によってかき乱されている昨今の日本を感じます。
日本民族だけの間で機能していたやり方は、その気になればいくらでも悪用できます。
20年ほど前海外旅行に行き始めた頃、「日本人は盗む人間が悪いと思っているが、盗まれるような隙を見せている人間が罪を誘発している」とか言われ、そんな考えもあるのだと思いましたが、今しみじみ分かります。
安全、安心は只ではないを実感。
日本も変わっていくのでしょうか、ため息。
Willhs読んでいませんが、まことにもって宮脇淳子さんのお説は、奇態なことに思われます。
異文化摩擦などでは、ございませんね。
相撲は、国技館自体が神事を行う殿堂だという感性と知識が欠落していらっしゃるのでしょう。
たとえば、モスクの寺院でこれが日本流だとして柏手を打つことが許されますか?
そういうことです。
ゆうこさん
まだしも、台湾の方でありまた温泉が何かということを解ってくださっている方でよろしかったです。
中国人に買い漁られる水資源、北海道の別荘地、対馬における韓国人の土地買い。
うなじを、ひんやりした風が吹き抜けるようです。
外国人が土地を買えぬよう、法律を早急に作るべきです。
日本人が大事にしない、捨ててしまう中に宝石のようなものは沢山あるんでしょうね
以前に八百長の事書きましたが・・モンゴルの人は八百長とは思わないのです(白鵬も日馬富士も)
照乃富士が日馬富士に例の宴席で殴られて、返した言葉が『ごっつあんです』でした
あまりに古い古臭い(笑)・・
それくらい日本の相撲会も遅れてるけど、モンゴル人の感覚はさらに江戸時代並です
但し貴乃花の考える相撲は理想です・・理想なら年6場所はあまりにブラックな職場です(体が悲鳴を上げてしまいます)現実とどう擦り合わせるのか?私には見えませんが・・
今回の騒動も、日本の中に外国人が入ってきた事による異文化摩擦のひとつであり、日本人は相手の背景を勉強して摩擦に慣れよ、といったような主旨でした。日本人もモンゴル人を見習って少しは寛容に、とも。
私は腑に落ちませんでした。私は相互主義を大事にしたいと思っています。何故、一方的に日本人が相手を理解しようと努力しなければならないのか。何故、いつも日本人が外国人に合わせなければならないのか。「モンゴル人も日本人を見習って、少しはお行儀良くして」と言い返してはダメなのか。土俵の外でガッツポーズしようが万歳しようが、「彼はモンゴル人だから。モンゴルの背景を日本人はよく知って」でいいのか。
仮に日本人が外国に行き、その国のルール・マナー・しきたりを破るような行動をしたとして、「私はこの国の人間じゃないから」でいいのか。
相撲という日本の神事に従事し、日本への帰化も視野に入れている力士であれば、なおさら日本のしきたりを大事にするべきではないのか。
相撲協会の体質に問題あり、という点では異論はないのですが、尊敬している先生だけに少しショックです。学者は専門分野の国に取り込まれて贔屓するようになる、と言いますが…。
内館牧子さんのように「モンゴル人は嫌いじゃないし朝青龍も個人的に好きだけど、でもしきたりは守ってよ」というスタンスが健全なのではないでしょうか。