たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

40数年振りに歩いてみた私の育った町

2020年03月23日 | 散歩

20日の春分の日は猛烈な風の一日でしたので21日に墓参りを済ませ、その足で私が生まれ育った集落を歩いて見る事にしました。 実家は移転しましたし高崎に出るのに県道が渋滞している時の通り抜けに利用する事は有りますが歩くのは、それこそ40数年振りの事です。

ここは同級生の家、此処は接骨院だった場所、ここはヘゴちゃん家(村の者は皆、貧相な体つきの平吾さんの事をヘゴちゃんと読んでおりました。盆踊りには必ずヒョットコの面を被り踊りに参加しておりました。そのヘゴちゃんが結婚しやがて子供が生まれます。その子供は成長し何と一橋大学の受験にパスしましたから村は大騒ぎ。それを知った村の議員は“タコちゃんにもヘゴちゃんに負けた、あれはきっと奥さんが優秀だからだろう”と悔しがったとか・・タコちゃんとは5円を母にねだっては行った村に唯一在った駄菓子屋で長男さんが東大受験にパス。私の兄に続き村で2人目の東大生です・・・と言う事で意外な展開が村に嬉しい衝撃をもたらしたのです)と雄さんに説明しながら歩きますが、どの家も建て替えられ、洗濯もしていた村の中を流れる川もコンクリートが被され昔の面影はすっかり消えておりました。  

町の南側に流れる大川は小学生の頃、学校から戻ると宿題は後回しにして近所の友人たちと笊を片手に魚取りに講じた川でした。 当時は今の様に整備されておりませんで両側は木が生い茂り鬱蒼としておりました。笊を川の端に置き足で川魚を手繰るとピンピンとカジカが笊の中で跳ね、何匹とれたと自慢し合った思い出の川です。 この川を東に進むと水を堰き止めた貯水場が在りそこは村の子供達の夏の水遊び場でした。 川から上がった時に蛭が私の足に付き大泣きした時、上級生が摘まんで取ってくれた事、時には蛇が余りの賑やかさに慌てて向こう岸に泳いでいった事、此処へ来るのに畑の中を通るためキュウリなどを失敬して食べた事 様々な事が走馬灯の様に蘇ります。

写真の右に見える寺は実家の菩提寺では在りませんが、ここも良く遊びにやって来た寺です。と言うのはここに閻魔大王が祀られている事にあります。一人ずつ覗いて来るというそれだけの事ですが、それが如何に恐怖であった事か・・・・・数十年振りに覗いた閻魔大王は当時のまま健在でしたが薄汚れたガラスに廻りの景色が映り込み写せなかったのは残念でしたが、ここも子供時代を語るに外せない場所の一つなのです。

この庚申塚は以前は川の反対側に在りました。赤松の下に平成八年移転と有りましたので、かれこれ25年前、反対側に移された様です、と共に小公園として整備され東屋が設置されておりました。 そこへやって来た墓参りの家族と暫く立ち話をしますと年齢は私と変わらない様に見えましたが全く見覚えが無く同級生の話をしますと「家の親戚ですよ」と少しばかり接点が見つけられただけでした。

この木にも思い出が有ります。今は綺麗に剪定して有りますが当時は樹高も半分位だった気がしますが剪定されておりませんでしたので張り出した枝に二人ずつ乗り揺らして遊んだ糸ヒバです。 叱られる事も無く、この頃は皆、大らかだったのですね。 この家は実家の隣の家で私より幾つか年下の女の子「ゆきこちゃん」がおりましたので、その子は私の良き遊び相手でもありました。 当時、農家の人達は竹細工や麦藁でムシロを編んだりと生活に必要な物は全て手作りでしたので私達はその脇にチョコンと坐って眺めたりしたものでしたが、あの光景は今でも鮮明に浮かんで参ります。

文化財の様な家が残されています。実家から徒歩で3分ほど先の家、昔、ご主人が村役場に努めており休日に此処で算盤塾を開いておりました。勿論、私も通いました。そのお蔭で今でも私は計算機は苦手の算盤派。

ドン! 連続10発  もう、何度目でしょうか、今日も花火が上がりました。 今年は秋田県に勝を譲った若手花火師競技大会でしたが来年こそは群馬で栄冠を勝ち取りたいと言う意気込みなのか、その為の試作花火なのかもしれないですね。

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久し振りのヒレンジャク  大室公園にて

2020年03月21日 | 野鳥や動物

もう遅いかな!と思いながら出かけた大室公園でしたが一羽、二羽、三羽・・・数は少ないものの未だ居ましたよ~ 

白木蓮が咲ききるとレンジャクが去ると言う目安のモクレンは未だ開花には至っておりませんでした。

先日、ブログ仲間のIさんのページでレンジャクツリーを見せて頂きましたが正にツリー。 何十羽というレンジャクが押せ押せで赤い実を啄んでいるのです。感動のあまり、初コメントさせて頂きましたが、あれには驚かされました。 対してこちらは余りにも寂しい数ですが昨年の様にお目に掛かれなかった事も有るのですから良しとしなければならないでしょう。

木蓮を眺めておりましたら枝の影に動く物が・・・シジュウカラでした。

笹に飛び移り

下に降りて来て最後に決めのポーズ

解りますでしょうか、中央に小さくヤマガラです。ズームを効かせる間もなく飛び去ってしまいました。

ツグミ

最後にやって来たのはジョウビタキです。 人をあまり恐れないと言われていますが、その通り、そろりそろりと近付いても首を右に左に回すだけでした。

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古墳・大室公園

2020年03月20日 | 散歩

この記事をついつい後回しにしている内に2週間以上も日にちが過ぎてしまいました。よって大室公園を訪れたのは3月7日の事です。 目的はヒレンジャクですが、その前に古墳を廻ってみたいと思います。

広い園内は赤城の裾野に位置し風が吹く日には、のんびりと散歩気分とは言えません。幸いこの日は穏やかな日和でした。

     柳は芽を吹きサンシュユは満開、いよいよ春らしくなりました

池を除けばオオバンも気持ち良さそう! (先日、額版が白いのがオオバン、赤いのがバンであると鳥師匠に教えて頂いたばかり)

ここには6世紀初頭から6世紀後半に造られた6基の古墳が点在しています。先ずは手前の小二子古墳、後方に後二子古墳を見ながら歩け歩け

梅の巨木を見ながらベンチで昼食とし再び歩け歩け   ここはペットもOKなので、ブランド物を身に付けたワンちゃんがあっちにもこっちにも。もしかして私が着ている物より上等品かも・・まるでファッションショーを見ている様です。可愛くて仕方ないのでしょうね。

ここに茶畑が有った事に初めて気付きました。 その向こうには何度か入った事の有る赤城型民家の旧関根家住宅が。

園内南方に在りますこの古墳は前二子古墳です。 何時も思う事ですが墓を踏みつけて良いのかと疑問を抱きながら皆で登れば怖くない精神で階段を一歩づつ。さすが登れば関東平野が一望でした。

中を拝見してみましょうかね。棺が納められていた部屋には後から作られた土器等が置かれておりましたが石棺はどうしたのでしょう。  「痛て」見れば雄さん、出入り口の石に頭をゴン(笑)・・・笑っちゃいけないね。  “雄さんは、くも膜下の手術をしているのだから気を付けないと・・・”   オッチョコチョイとよく言われる私ですが、その言葉を今日はそのまま返してやる事に致しましょう!

次回、目的のヒレンジャクに続きますのでコメントはお休みに致します。

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3月の天気の七変化

2020年03月18日 | 暮し

家の周辺の梅も咲き揃いました。 花が咲いたら相馬山を背景に写したいと思っていた場所、今頃は丁度よいだろうかと行ってみればドンピシャリ

裏の一花ちゃんがワンちゃんを連れて遊びにきました。今、1歳半、ちょっと見ぬ間にアンヨも上手になって幼児の成長の早さに驚かされます。最初は遠慮がちにしていたバイバイも終いには力強く大きく・・・

天気が急変したのは翌日の事です(3月16日)

おや?風花が

と、思っている内に強風に雪が舞い、まるで吹雪の様相を呈してきました。これも春を迎える為には味わわされる季節の儀式なんですね。

そして翌朝

榛名山は白銀の衣を纏って朝日を受け光り輝いていたではありませんか。春の嵐が運んでくれた思わぬ贈り物でした。

 

 

 

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信玄を唸らせた武将・長野業政の墓所を訪ねて

2020年03月16日 | 散歩

続き

この寺が長野氏の菩提寺・長純寺です。以前、一度だけ訪れた事が有りますが、その時は山門迄でした。先祖が創建した菩提寺は下室田の長年寺(家から車で約20分ほど)で歴代の城主はそちらに眠っておりますので業政の菩提を弔う寺と言う事になるのでしょうか。 経緯に尽きましては後でまた調べてみたいと思います。   山門には長野氏の家紋、檜扇が掲げられておりました。

山門脇に咲いていた赤花のミツマタ

山門を潜りますとそれほど古い物では無いらしい鬼瓦の先に、何時のものでしょうか どちらかと言うと不細工な六地蔵に迎えられました。

何度かの火災に遭い現在の本堂は江戸時代に再建されたものだそうです

本堂脇にある不動明王

箕輪城家臣の墓(↑)を見て墓地内を案内板に従って上へ上へといざなわれると墓地の上に出ます。当時は木が有ったのでしょうが今は伐採され明るく開けた広場はチップが敷き詰められ桜の苗木が植えられてておりました。

当時はさぞかし寂しい場所だったに違いない場所に一里塚の様なものが見えます。   

「私が死んだあと一里塚と変わらぬ墓を作れ、敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならぬ。運が尽きたら潔く討死せよ」 それこそが私への考義、これに過ぎたるものはない」   業政は業盛を病床に呼びそう遺言をしたと言われております。  武田信玄に負ける事の無かった程の武将が驕らず高ぶず先祖の墓とは無縁なこの様な山奥に埋葬させた業政の度量を私は感じずにはいられませんでした。 世には力の無い人ほど偉ぶる人がかなり多い様です。そうならない様、私達も気を付けないといけませんね。

            

業政の墓に寄りそう様に眠る令室の墓

振り返れば高崎・前橋の町並みが一望された。業政とその令室も「世も変わったものじゃ」と見下ろしているでしょうか。

さて、業盛の弟・伝蔵(業実)は武田氏滅亡後に徳川四天王の一人で箕輪を領した井伊直政の家臣となって4000石を有し彦根藩の次席家老を務めたとの事です。  私が生まれた場所は長野村ですが、此処には長野性が今も残ります(同級生にも2名おりました)  今は合併で長野村は無くなり、箕輪も同じく高崎市に吸収合併させられてしまいましたが歴史的地名が失われてしまうのは寂しいものですね。

コメント (9)
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