続き
この寺が長野氏の菩提寺・長純寺です。以前、一度だけ訪れた事が有りますが、その時は山門迄でした。先祖が創建した菩提寺は下室田の長年寺(家から車で約20分ほど)で歴代の城主はそちらに眠っておりますので業政の菩提を弔う寺と言う事になるのでしょうか。 経緯に尽きましては後でまた調べてみたいと思います。 山門には長野氏の家紋、檜扇が掲げられておりました。
山門脇に咲いていた赤花のミツマタ
山門を潜りますとそれほど古い物では無いらしい鬼瓦の先に、何時のものでしょうか どちらかと言うと不細工な六地蔵に迎えられました。
何度かの火災に遭い現在の本堂は江戸時代に再建されたものだそうです
本堂脇にある不動明王
箕輪城家臣の墓(↑)を見て墓地内を案内板に従って上へ上へといざなわれると墓地の上に出ます。当時は木が有ったのでしょうが今は伐採され明るく開けた広場はチップが敷き詰められ桜の苗木が植えられてておりました。
当時はさぞかし寂しい場所だったに違いない場所に一里塚の様なものが見えます。
「私が死んだあと一里塚と変わらぬ墓を作れ、敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならぬ。運が尽きたら潔く討死せよ」 それこそが私への考義、これに過ぎたるものはない」 業政は業盛を病床に呼びそう遺言をしたと言われております。 武田信玄に負ける事の無かった程の武将が驕らず高ぶず先祖の墓とは無縁なこの様な山奥に埋葬させた業政の度量を私は感じずにはいられませんでした。 世には力の無い人ほど偉ぶる人がかなり多い様です。そうならない様、私達も気を付けないといけませんね。
業政の墓に寄りそう様に眠る令室の墓
振り返れば高崎・前橋の町並みが一望された。業政とその令室も「世も変わったものじゃ」と見下ろしているでしょうか。
さて、業盛の弟・伝蔵(業実)は武田氏滅亡後に徳川四天王の一人で箕輪を領した井伊直政の家臣となって4000石を有し彦根藩の次席家老を務めたとの事です。 私が生まれた場所は長野村ですが、此処には長野性が今も残ります(同級生にも2名おりました) 今は合併で長野村は無くなり、箕輪も同じく高崎市に吸収合併させられてしまいましたが歴史的地名が失われてしまうのは寂しいものですね。