足利政権体制が衰えを見せ始めた頃
孤高の体制維持保守有力大名、越後の長尾景虎が関東管領・上杉家より管領職と上杉姓を譲り受けると
箕輪城主・長野業政は上杉謙信の上野守護代として上州を差配する事になるが
管領地で有ったが為に有力大名とはならず
守護代職を良く勤め近隣有力大名に勇名を馳せていました
併し時は群雄割拠の戦国時代、関東の西には甲斐の武田家、南には相模の北条家が
管領家の衰えと共に隙あれば関東を領せんと虎視眈眈、狙っていたのでした
虎とう門から三の丸に先導する山伏姿の武田方の間者達(あくまで創作)
武田方の網を潜り抜け物見から長野方の陣に戻る兵士の心は一つ「信玄を打つ」
杉木立の中、勝利を確信し大挙押し寄せる赤備えの武田軍
信玄は浅利義稙を補佐役に嫡子勝頼(とする)に指揮を取らせます
迎え討つ長野方には大胡城主であると共に剣聖と称えられる新陰流の祖・上泉伊勢乃守もこの戦いに参戦していました
弟子には巷間有名な丸目蔵人・疋田文五郎・神後伊豆・公家では足利義輝など錚々たる名前が連なります
長野業政の死をきっかけに此処を先途と武田信玄は一挙に攻撃を仕掛け箕輪城を落城させました
長野方主力兵士や健気にも武田軍に向かう少年兵士はことごとく討死
「無念じゃ」敗残の将、長野業盛(とする・実際は誰が誰やら分りません)は、もはや此れまでと
辞世の句「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪(みわ)の山里」を残し果てたのでした
特に後、有名な柳生は新陰流・疋田陰流に当たり
信綱からは孫流であるが徳川期では隠然たる勢力を持ったのは既成の事実でしょう
(安土桃山の時代にも有った???ポカリスエット。)
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(第2部)
祭りの中で見かけたチビッ子兵士
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箕郷に残る獅子舞
カッコいいですね。居あい流
私も以前、齧った事がある弓道も披露されました
最後に上州名物「焼きまんじゅう」
甘い味噌だれをぬり食べますが、これがとても美味しいんです
誰もが食べ終わったあと口の周りがお味噌だらけになるのでデイトの時には敬遠したいお饅頭です