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太平洋戦争日本諜報戦  言語官の活躍と試練

2021年10月15日 14時02分57秒 | 読書・文学


太平洋戦争の対日諜報戦で、捕獲した日本軍文書の翻訳、暗号解読、捕虜の尋問、プロパガンダ活動等に携わった言語官たち。終戦後は連合国軍の一員として戦犯裁判や、GHQの占領政策実施で不可欠な役割を果たした。米国、英国、オーストラリア、カナダは、語学兵をどのように動員したか。早い時期から重要性を認識して準備した国と、終戦間際になって慌てた国の違いは何だったのか。各国の言語官養成の実際、戦地での活躍、二世たちの葛藤…。貴重な記録から、日本語諜報の実像に迫る。

序章 熊本・九州学院に残された名簿
第1章 米軍における二世語学兵の活躍と苦悩
第2章 ロンドン大学と暗号解読学校
第3章 頓挫した豪軍の日本語通訳官養成計画
第4章 カナダ政府の躊躇
終章 戦争と言語

マッカーサー
「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」

2世語学兵が「100万人の米国人の命を救い、戦争を2年間短縮した」
日本軍文書の翻訳、通信の傍受、捕虜の尋問などを通して得られた情報が連合軍の勝利に大きく貢献した。

2世語学兵は終戦までに2,050万ページ分の文書を翻訳。
その中でも、最大の功績として日本海軍の機密文書だった「Z作戦」計画書の翻訳である。
日本では海軍乙事件として知られている。
この翻訳によって、太平洋戦線での反撃を狙う日本海軍の作戦は米軍に筒抜けとなり、6月19~20日のマリアナ海戦で、米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄するほどの一方的な勝利を収めた。
この戦闘中、米海軍の語学将校は航空攻撃を調整しあう日本側の通信を傍受し、その情報をもとに米軍パイロットに攻撃目標を伝えていた。

捕獲文書の中には、日本軍兵士が残した日記が大量にあった。
その翻訳を通して、連合軍は日本軍の作戦や兵站の状況、また兵士の士気や心理状態を知ることができた。また、墜落した米軍パイロットを日本刀で斬首した事件や捕虜収容所での日本軍による捕虜虐待行為を詳細に記録したものもあり、こうした情報は戦犯裁判の準備にあたり使用された。

兵士が日記を書くことを許していたことが日本軍敗北の原因の1つだと指摘する元2世語学兵は少なくない。
米軍兵士は日記を書くことなど禁じられていたし、カメラも持っていなかった。
日本軍では、米軍のような検閲はなかった。
私など、妻に送る手紙でさえ検閲されていた。
日本軍は2世語学兵の存在に気づいていなかったと思う。
日本軍の戦い方は筒抜けだった。


日本軍が戦場での文書の安全管理にずさんだったのは、日本語は難しい言語であり、敵に日本語が理解できる要員などいないと考えていたからだと言われている。
しかし、中には家族や故郷に思いをはせる文章もあり、それを読み翻訳する語学兵は心が痛むこともあったという。

語学兵たちは、司令官に対し、捕虜の尋問を通して得られる情報の利用価値を伝え、報奨を与えるなどして生きたままの日本兵と彼らの所持品を届けるように訴え続けた。結果、1943年6月時点で米軍の日本人捕虜の数は62人にすぎなかったのが、半年後には297人に増えていた

日本人捕虜のうち、諜報価値が高いと判断された者は米国本土にある秘密の尋問所に送られた。その1つがカリフォルニア州トレーシーにあった。捕虜の部屋にはマイクが仕掛けられ、彼らの会話は地下室で盗聴されていた。

日本軍の暗号JN25





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