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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

特務艦隊 C.W.ニコル/著 村上博基/訳  

2021年01月29日 11時18分21秒 | 読書・戦争兵器


いまも地中海はマルタ島に建つ慰霊碑。それは友軍のために果敢に戦い、地中海に散った日本海軍軍人を祀る。英国海軍軍人を父に持つC・W・ニコルが勇壮に描きつくす第一次大戦の秘話。

第一次大戦終盤。跳梁するUボートから連合軍の補給船を守るべく地中海に派遣された日本海軍。その誇り高き姿を勇壮に描く長編。


連合軍は、Uボートがアドリア海の基地を本拠に、イオニア海から地中海にかけて出没するのを封じるため、イタリアの長靴のかかとと大陸の間のオトラント海峡に、長大な対潜哨戒網を敷いた。哨戒線は5本あり、それぞれに駆逐艦、潜水艦、聴音船、掃海艇、武装漁船、快速艇、観測気球曳航船、2隻で爆薬筒を曳く掃海船が配置されていた。

1917年、大正6年、2月6日、極秘の勅命が佐世保に届いた。
特務艦隊を編成して地中海に赴き、同盟国イギリスの対ドイツ・オーストリア潜水艦作戦を支援せよというものだった。
出動駆逐艦は、佐世保鎮守府所属の第11駆逐艦隊の松・榊・杉・柏と
第10区駆逐艦隊の梅・楠・桂・楓の計8艦。

第11駆逐艦隊の4隻は、2月18日、佐世保を出航した。
目的地は軍機だったから、艦長でさえ家族にどこへ行くとは言わなかった。
これは日本海軍にとって、戦闘加入のためのかつてない長距離遠征であった。

つぎに佐藤少将は、総理大臣・寺内正毅(まさたけ)に会った。

便秘症状が多発したが、それはひとつは艦の洋式便所に慣れぬ者が少なくないせいだった。
ときおり南洋の空高く巨大な積雲塊が湧いて、炎熱を冷ますスコールをもたらすことがあった。
「総員スコールの浴び方用意!」の号令がとぶ。
全員素っ裸になり、石鹸を握りしめて、贅沢な天然シャワーの到来を待ち受ける。

凪の南洋では、駆逐艦のような舷側の低い艦では、思わぬ余得にあずかることもあった。
トビウオが青と銀色の魚鱗をきらめかせて水上を疾駆するのは、見ているだけでも楽しいが、どうかするとそれが、次々に甲板に飛び込んでくる。塩焼きにされて夕飯の食卓をにぎわすのだった。水兵のなかにマグロ漁船に乗っていた男がいて、イルカを一頭銛で突いて、刺身にしようと言い出したのがいた。が、艦長が禁じた。イルカを殺すのは不吉である。

艦隊はアデンをあとに紅海に入ったが、そこに待っていたのは猛烈な時化だった。
スエズ運河を抜け、ポートサイドに到着、アレキサンドリア港に向けて出港した。

1917年1月、ドイツとオーストラリアはアメリカに対し、無差別潜水艦開始を通告した。
再選されたウィルソン米大統領がドイツに対して激怒したのは、アメリカ船撃沈と人的被害だけが理由ではなかった。
イギリス海軍情報部により傍受解読され、それには、メキシコがドイツと同盟すれば、ドイツは旧メキシコ領であるテキサス、アリゾナ、ニューメキシコ州の復帰を助けるとあった。
電文は本物であることがわかり、それまでの合衆国内に支配的だった、これは欧州の戦争であり、アメリカには関係がないとの強い国民感情を、一挙に吹き払った。

ついにウィルソン大統領は、1917年4月6日、ドイツとその同盟国にたいし宣戦布告した。

「昨年末までにUボートが地中海で沈めた船舶は256隻、総トン数じつに66万トンになります。損害は枚挙にいとまがなく、状況は深刻をきわめています。Uボート艦長は、そういってよければ、さほどに優秀なのです。冷酷、勇敢、そして技量は卓越しています。さらに付け加えるなら、じつに豊富かつ正確な情報に導かれています」

「潜水艦というやつは、浮上していても、船体の大部分は水中にある。
敵はぎらつく海面では発見されにくいことを知っているから、極力太陽を背にして攻撃してくる。もしなにかを発見したなた、なんであるか確認できずとも、方位と距離を大声で呼ばわること。それが流木か人魚であるとわかっても、気にすることはない。皆と一緒に笑えばいいのだ。あとで上官にどなられようとも、誤警報を恐れてはならない。」

「マルタ島に着いたら、イギリス海軍がわが艦に機雷投下装置を据えて、投下練習をしてくれることになっている」

港町には梅毒がつきもので、治療薬といっても水銀軟膏(マーキュリー)しかなく、その水銀自体がへたをすれば命取りにもなった。それでも船乗りは船乗り、ましてマルセーユは、日本男児が肉感あふれる西洋人の女、それもフランス女にありつく二度とはなさそうなチャンスだから、一番試して故郷の土産話にせずはいられなかった。

「一人残らず排除(テイクアウト)する、いいな」
「テイクアウト?」
「全員殺すということだ。負傷者にもとどめを刺す」

「あの少女を始末してもらえますか」
「鎮痛剤で眠らせたが、意識を失う前に、自分は回教徒で、異教徒に辱めを受けたから死にたいといった。13になったばかりだ。始末はしない」
「生かしておけばしゃべります。ラッコの顔を見たのは確実です」
大佐はかぶりをふって「しゃべりはしない」といいきった。
「親元に送り届けたら、陵辱された娘は死ぬしかない。一家の恥なのだ」


「いるが、まだ挙式はしていない。
日本の海軍では、将校が結婚するには許可が必要だが、・・・・」

1918年6月11日、海軍が制作費3,000円で発注した忠魂碑が、マルタ島カルカラのイギリス海軍墓地に建立された。シンプルなデザインの石柱で、第二特務艦隊戦没者之碑と彫られ、側面には死者全員の氏名階級を列挙した銅板がはめこまれていた。
日英両語で書かれた碑文は、《帝国海軍第二特務艦隊に所属し、1914~18年、大戦において地中海に散華した将校の霊に捧ぐ》と読めた。

男を惑わす妖艶なダンサーとして知られた女スパイ、マタ・ハリもフランス軍法会議で死刑の宣言を受け、政界と軍部の大物による救済工作もむなしく、パリ郊外の騎兵隊演習場で歩兵分隊によって銃殺された。

スコットランドの最北端、オークニー諸島にある海軍基地:スカパーフロー

イギリス、ハリッジには投降したドイツ潜水艦140隻が、4列になって係留されていた。
日本に引きわたされるのは、1,450トン級からはU125
750トン級からU46とU55、
700トン級からUC90と99、
500トン級からあUB125と143
計7隻であった。

設備のそろったポーランドの修理設備のあとは、マルタ経由で長躯日本までの回航という難事中の難事が待っている。
7隻のUボートを点検した日本海軍の回航員は、その設計と構造の随所に見られる新技術と、いかにもドイツらしい堅実堅牢な造艦に舌を巻き、俄然意欲を燃やした。
この7隻がどれほど日本潜水艦の性能向上に寄与するか、計り知れない。

潜水艦で死んだドイツ、オーストリアの仕官550名、水兵4,894名、これは海軍の戦死者総数の40%にあたる。
日本の潜水艦乗組員は全員、即効性の劇薬錠剤を持たされているときく。
ドイツ海軍にそういう話はきかない。

ポートランドでは、戦利潜水艦の修理と整備に寧日なかったが、7隻中3隻に、いつまでも水漏れがあった。日本へ回航するまでには、なんとしても浸水箇所を突き止めて塞がなくてはならなかった。

「乾杯:チアーズ」彼は英語でいった。

1919年、大正8年、6月18日、全艦日章旗と軍艦旗をひるがえして、横須賀軍港に堂々の凱旋帰還を果たした。
帝国海軍が20世紀に、戦争を終え、勝者として帰国するのは、これが最後となった。

==訳者あとがき==
私は第一次世界大戦で日本海軍が、地中海に艦隊を派遣した事実をまるで知らなかった。
その無知を棚に上げていうなら、今の世の日本人のいったい何人中何人が知っているだろうか。
たとえば高校の教科書は取り上げているのか、いなのか。
日本は本書における同盟国イギリスを今度は敵にまわし、怨敵ドイツが同盟国だった。

訳出にあたり、つぎの著作に負うところ大であった。
『日本海軍地中海遠征記』片岡覚太郎
『日本海軍地中海遠征記』紀 脩一郎
『日本海軍地中海遠征秘録』













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