
第二次世界大戦中、外交官だった杉原千畝は外務省の方針に反して日本通過ビザを発給し、多くのユダヤ人を救った。杉原はなぜビザ発給の決断に至ったのか。そしてその覚悟とは…。多くの資料を紐解き、様々な証言や時代背景に照らして、知られざるその理由に迫る!
現在ももこの岐阜県美濃市には「千畝橋」があり「美濃千畝町」というバス停が残っている。
杉原にとって初めての子供であり、嬉しさも一入(ひとしお)だったろう。
「好ましからざる人物;ペルソナ・ノン・グラータ」
ソ連に入国を拒否された杉原は、1937年8月12日、フィンランド・ヘルシンキにある日本大使館への在勤を命じられた。
海路シアトル⇒鉄道でニューヨーク⇒海路ドイツ⇒鉄路ヘルシンキ
妻節子と1歳に満たない息子弘樹を抱えての1ヶ月の移動は大変な旅だった。
1939年、異動の命令が下った。
次の赴任先はリトアニアのカウナスだった。
領事館開設から10ヶ月経った頃、思ってもみない難題が降りかかった。
1940年7月中旬、ポーランドから逃げてきた大勢のユダヤ難民が、日本の通貨ビザを求めて領事館を取り囲んだのである。
1940年8月29日、次の任地としてチェコのプラハへの異動命令が発令された。
杉原によると、チェコにおけるドイツ人のユダヤ人政策は過酷なものだった。
公職をはじめとする多くの職業に対して厳しく制限したばかりでなく、ユダヤ人企業を没収し、銀行や主要産業などを彼らから取り上げた。ユダヤ人はすべてを奪われ、コミニュティは崩壊し、地獄のような状況下に置かれていた。
プラハの総領事館では1940年1月18日から41年2月26日まで、105枚のビザが発給された。
プラハの日本総領事館を閉鎖し、東プロイセンのケーニヒスベルクの日本領事館に赴任した。
1941年3月6日のことだった。
前年8月3日にソ連がバルト三国;エストニア・ラトビア・リトアニアを併合したことにより、それぞれの在外公館を閉鎖しなければならない状況となった。
東部ドイツの政治・経済の中心地であり、ドイツやソ連、そしてポーランドなどの情報収集として、また今後のドイツ・ソ連関係の観察拠点としてケーニヒスベルクが選ばれた。
杉原の情報活動はドイツの外務省や軍関係者の知るところとなり、要注意外交官としてマークされた。1941年11月27日、ルーマニアのブカレストにある日本公使館への異動を命じられた。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。
公使館にはソ連軍がすぐに押し寄せ、杉原とその家族は収容所へ送られた。
そして帰国するまでの長い間、収容所生活を強いられることになった。
リトアニアの国名を「ロトアニア・ソビエト社会主義共和国」
リトアニアを併合したソ連政府は、すでにリトアニアに逃げ込んでいた数万のユダヤ難民を抱え込むことになった。これは頭の痛い政策課題の1つとなった。
通過ビザを発給するにはいくつかの条件があった。
まず最終目的地の入国許可書を持っていること、そして渡航チケットを持っていること、
さらに日本へ上陸する際の提示金を所持していることだった。
しかしすべての要件を満たしている者は稀だった。
それでも杉原は彼らを救うために要件不備でもビザを発給した。
そのため日本に上陸する際の港となった福井県敦賀では、入国審査に混乱が生じていた。
1938年12月6日「ユダヤ人対策要綱」
ドイツのようにユダヤ人を排斥(はいせき)することは日本の人種平等の精神に合わないとしている。
1940年8月になると、杉原が発給した要件不備のビザを持ってウラジオストクから敦賀港へ続々と上陸する避難民の対応に苦慮していた。
外務省では以前から、外国人の入国者は1,500円、通過者は250円を上陸の際に提示するという内規があった。しかし、避難民に関する取り決めはなかった。さらに入国審査をするのは内務省だったが、両省庁の間で取り扱いが一致しない問題が生じていた。
杉原はビザ発給について、書簡の中で次のように答えている。
「結局私は東京との無意味な対話を中断することに決めた。
こうして独断で通過査証の発給を始めた。責任はすべてを負うことに決め、日本から先の旅を証明する書類を所持しているか否かを問わず、私は自分のところにやってきた文字通り全員に査証を発給したのである」
当時の彼の心境が綴られている。さらに
「もっぱら人道的精神の命ずるまま、他者に対する愛情からーーもっとも失職することは予見していたのだが、私に謂うすべてのポーランド人に対し査証を出し続けた」
さらに、1983年9月29日にフジテレビで放送された
「運命をわけた一枚のビザ、4,500人のユダヤ人を救った日本人」のなかで彼は・・・
「当時の内務省が、何千人と避難民が来たら公安上、取り締まりの上、困ると言っていた。
また外務省も陸軍の命令で、ナチに追われている者を助けることは、枢軸国協定の手前できないと言ってきた。しかし、自分がビザを発給しなければ、避難民がソ連のビザをもらっても何もならない。彼らは行くところがないのだ。
彼らがナチに捕まり、殺されることを彼らから聞いていた。だから、反対があってもビザをださなければならないと思った」と当時の切迫した状況を語っている。
「気の毒な方々を見殺しにできなかったから」
「人道上の気持ちでビザを書こうと思った」
「博愛人道精神から決行したことであった」
杉原は1940年8月から、ビザ発給を手書きからスタンプに変えた。
「キュラソービザ」
このままリトアニアにユダヤ難民が留まっていたら、ドイツ軍の侵攻によって虐殺される危険性があることを知っていた。一刻も早く彼らを脱出させなければならなかった。事実、杉原が去った後、ナチス・ドイツ占領下のリトアニアでは、避難民も含めたほとんどのユダヤ人がホロコーストの犠牲となった。
ソ連政府は従来から国民の移動を制限していた。
しかし、ソ連国籍を持たない多くの避難民には、シベリア鉄道を使ってウラジオストクへ行くことを認めていた。
厳しく移動制限がなされている中で、なぜ多数の避難民の移動が認められたのか。
2016年に発表された論文の中では、ソ連にとって不足していた外貨;ドル入手のためという、経済的な思惑が大きな要因の1つだった。
抱え込んだ避難民はソ連にとって邪魔な存在だったため、速やかに出国させる必要があった。
それによって外貨という果実が得られる一石二鳥の解決案だった。
スターリンは「リトアニアに滞在するポーランドからのユダヤ系難民に、ソ連を通過する許可を与える」と決定。これは帝政ロシア時代から迫害を受けていたユダヤ人に、理由はともあれ救いの手が差し伸べられるという皮肉な決定だった。
ユダヤ避難民は、日本という見知らぬ国に向けて希望を胸にウラジオストクを目指した。
しかし実際は、その希望を打ち砕くほどの過酷なものだった。
シベリア鉄道では法外な運賃を要求され、列車内では金品が盗まれ、到着したウラジオストクのホテルでは通常より割高な宿泊費を請求された。
こうして杉原が手渡した「命のビザ」が、ウラジオストクの根井三郎によって受け継がれた。
それはあたかも命を繋ぐバトンリレーのようであった。
神戸のユダヤ人協会が一旦その身元を保証することで上陸が可能になった。
「入国特許」
「滞邦許可書」
避難民の中には延長を重ねることにより、1年近く日本に滞在できた人もいた。
ビューロー職員、大迫辰雄は根井三郎と同様、「命のビザ」を繋いだ民間外交官だった。
もうひとり「命のビザ」を繋いだ小辻節三。
小辻はこの時、南満州鉄道総裁の松岡洋右(ようすけ)からアドバイザーの要請を受け、一家で満州へ渡っていた。
松岡総裁は満州国経営にあたり、ユダヤ人の頭脳と経済力を視野に入れ、小辻の持つヘブライ語の語学力とユダヤ人に関する知識を必要としていた。
「ユダは裏切り者であり、その末裔のユダヤ人たちに、なぜリンゴを配るのか」
多くの避難民は、行き先国が決まらないまま神戸に滞在を続けていた。
アメリカとの開戦に備えていた政府は、1941年9月を目途に、ビザが必要のない上海の日本租界地へ彼らを移送する方針を固めた。
ヘブンと呼ばれた敦賀
多くのユダヤ人避難民が上陸した敦賀は、日本海屈指の天然の良港として発展してきた。
1941年2月2日、厳冬の敦賀に着岸した船から重い足取りでタラップを降り始めた人たちがいた。そのなかに、両親に手を引かれた一人の少年がいた。
彼の名はレオ・メラメド。
後にアメリカのシカゴ・マーカンタイル取引(CME)に通貨先物市場を創設し、「金融先物市場の父」と呼ばれた人物である。敦賀に降り立ったレオ少年は9歳だった。
レオ・メラメドは後に、敦賀の印象を次のように語っている。
「敦賀に着いたとき、山々の頂が白かったことを今でも覚えています。地面にも雪が積もっていました。しかし、不思議と空気は温かく感じられました。きっと、難民の私たちを迎え入れてくれた、敦賀の皆さんの温もりを肌で感じたのだと思います」
彼らに無料開放した銭湯「朝日湯」
「小さな家々が建ち並び、花にあふれた美しい町並みだった。非常に礼儀正しい人々が住む町というのが敦賀の第一印象だった。私は敦賀で初めてバナナを食べた。あんなにおいしいものを食べたのは生まれて初めてだった。バナナを見ると敦賀のことを思い出します」
「私にとって鶴賀は人生そのものです。ビザを持っていたとしても、敦賀が受け入れてくれなかったら、自分のその後の人生はなかったと思います」
1968年8月2日付けの朝日新聞夕刊で、杉原がユダヤ避難民へビザを発給したことが紹介され、一般に知られるところとなった。
1985年1月18日、杉原は再びマスコミで大きくクローズアップされた。
イスラエル政府が彼に「諸国民の中の正義の人」という称号を授与したからである。
この称号は、自らの生命の危険を冒してまでナチス・ドイツによるホロコーストからユダヤ人を救った非ユダヤ人を顕彰するものだった。
1969年12月、杉原は息子の伸生の案内でガリラヤ湖、ナザレ、アッコー、ハイファ、エルサレム、テルアビブを見て回った。また死海に行き、遊牧民族ベドウィンのラクダに乗って観光を楽しんだ。
1969年10月、川上貿易会社が蝶理株式会社に統合されることになり、杉原は嘱託職員として蝶理に移籍した。

