N ’ DA ”

なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

逆転の戦国史 「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀

2021年03月03日 11時04分59秒 | 読書・歴史


第1章 「天才」ではなかった信長(「天才」ではなかった織田信長―英雄神話の逆転
今川義元と桶狭間の戦い―凡将にあらず ほか)
第2章 「叛臣」ではなかった光秀(明智光秀・謎の前半生
越前の雄・朝倉義景とその一族 ほか)
第3章 室町時代とは何だったのか―信長・光秀へいたる道(「観応の擾乱」とは何か―足利尊氏・直義兄弟、骨肉の争い
「嘉吉の乱」とは何か―将軍・足利義教教謀殺 ほか)
第4章 帰蝶と煕子―戦国の女たち(信長の妻・帰蝶(濃姫)と斎藤道三―謎に満ちた父娘
豊臣秀吉の正室・北政所の謎を追う ほか)

信長の朝廷への不敬・・・
信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位をすすめ、朝廷がもちいる宣明(せんみょう)暦にかえて、おのれがよしとする三島暦を採用させようとした。暦の作成は朝廷の大権であったから、これらが専横として憎しみを招いたとみられ・・・
暦の問題にしても、宣明暦には閏月の設定をめぐって不都合があり、信長がたんに合理的判断から進めようとしたと見られている。

「三職推任(さんしきしにん)問題」・・・
朝廷から信長に対して「関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれかに就任させよう」
■将軍位は頼朝以来、源氏が就くものとされていたため、平氏を称する信長の就任は認めがたいものだった。(光秀は土岐源氏の流れを汲むとされる)⇒正義説
▲自分が将軍となりたかった⇒野望説
●足利義昭と通じていた光秀としては、信長の将軍就任は是が非でも阻止せねばならぬものだった。⇒黒幕説

~~四国説?ついに真打ち登場?~~
2010年代に入り、にわかに注目を浴びはじめたのが「四国説」。
石谷(いしがい)家文書と呼ばれる古文書群が発見。
「四国は切り取り次第」(好きなように領土を広げよ)
信長は、長宗我部元親が自分で征服した伊予、讃岐を返上させようとした。
交渉担当者だった光秀の面目は丸つぶれとなったわけである。とうぜん元親も反発、信長の三男・信考を総大将とする軍勢が差し向けられるこことなる。討伐軍が渡海しようとした当日、本能寺の変が起こったのだ。

戦国時代とは、室町の末期でもある
彼ら戦国武将の闘争は室町の破壊につながり、新しき世の地ならしをすることになった。

悲劇の将軍・足利義輝
幼名は菊憧丸。
元服、名のりを「義藤」として、征夷大将軍の位につく。
義輝と改めるのは8年後。
細川藤考や三淵藤英など、彼の側近に「藤」の字がつく名の者が目立つのは、初名の一字をいただいたわけである。
彼が天下の人士から哀惜をあつめたことは間違いない。
謙信はじめ諸国の大名や朝廷の公家・女官などが義輝の死に怒りと悲しみをあらわにした記録が残っている。また、死の2年後におこなわれた供養には、7,8万人もの人々が集ったという。

室町幕府最後の将軍・足利義昭
甲斐の武田信玄が信長と断交、朝倉・浅井・本願寺らと呼応して上洛の途に就いた。
いわゆる「信長包囲網」である。
盟友・徳川家康が立ちはだかったものの、手もなく信玄に蹴散らかされてしまう
三方ヶ原の戦い。

武田が滅びた1582年、宿敵信長も本能寺で散る。
この変について義昭は、「逃れがたい天命である」という言葉を残している。
すでに追放されて10年近くが過ぎていたが、なおも怨みはおさまっていなかったらしい。

義昭が毛利家から念願の帰京をとげたのは、1587年、51歳。
秀吉から1万石を与えられ、しずかな晩年を過ごすこととなる。
出家して昌山(しょうざん)と号し、文禄の役に際しては、秀吉に同行し、肥前名護屋(佐賀県)へまでおもむいている。その死は1596年、秀吉が没する1年前である。



読者登録

読者登録