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【東日本大震災から10年】被災地へ走った“前例なき”緊急石油貨物列車。鉄道マンたちの挑戦(前編)

2021年03月18日 06時02分09秒 | ネタ
東日本大震災から10年。
震災発生当時、寒さが残る東北地方では深刻な石油不足に陥っていました。鉄道や道路も各所で寸断される中、なんとか石油を届けなければと、最善を尽くした鉄道マンがいました。
地震発生から石油列車を走らせるまでの8日間、何が起きていたのか? 鉄道マンたちの証言を元にお伝えします。

震災発生後、東北では石油不足が深刻に。鉄道の現場では何が起きていたのか?
土屋さん: 2011年3月11日。東日本大震災の発生によって、石油精製施設や貯蔵施設が被害を受け、交通網が寸断された東北の各地では石油不足になっていたことがニュースでも報道されました。
(2011年3月13日・昼のNHKニュース)

アナウンサー: 気仙沼市です。市内の道路では人や車が動き始めています。
ただ『さまよっている』という表現が正しいかもしれません。
ガソリンスタンドにいてもガソリンが手に入りません。緊急車両以外は給油できないというスタンドがほとんどです。ここから別の町に避難できず、結局食糧や水を求めて『さまよう』という状況が続いています。
市内の避難所では、家を失い、家族とも連絡がとれないなかで、被災者の不安が高まっています。

土屋さん: お聴きの通り、石油が無くなるということは、灯油のストーブなどで寒さをしのげない。ガソリンや軽油を使う緊急車両が走れない。救援物資も運べない。発電機も動かせない。事態はまさに深刻でした。
久野さん: このような状況の中、横浜から日本海側をまわり、1000キロ以上もの鉄路をつないで、東北へ石油を輸送するプロジェクトが浮上しました。
そして鉄道マンたちの奮闘によって、震災からわずか8日目の3月18日・夜7時44分。792キロリットルの石油を積んだ18両のタンク貨車が、横浜の根岸を出発。新潟・秋田・青森などをまわって、翌19日の夜9時51分、岩手県の盛岡貨物ターミナルに到着。走行時間は約26時間。1032.8キロの長距離輸送になりました。
石油はタンクローリーに詰め替えられ、東北各地に運ばれていきました。
野月さん: このプロジェクトには、たくさんの人や組織の協力が必要不可欠でした。
機関車と運転士はJR貨物、線路は大部分がJR東日本、タンク貨車はJOT・日本石油輸送と、主にこの3社を中心に、たくさんの会社が関わっています。
あの混乱の中で、迅速に連携しないと、このプロジェクトは成しえませんでした。
土屋さん: 当時、この石油列車に携わった方々のインタビューを通して、前例のないこのプロジェクトに迫ります。
まずは当時、JR貨物で全国13か所の指令室を統括する本社指令室の室長として混乱の現場を指揮していた安田晴彦さんにお話を伺いました。

土屋さん: 当時の状況について教えて下さい。
安田さん: 当時は会議をしていました。最初は普通の地震かなと思いましたが、激しい揺れが長く続き、みんな机の下に隠れました。“これは相当まずいことになるな”と揺れる机の下でずっと考えていました。
土屋さん: 考えていたこととは、貨物の交通網のことですか?
安田さん: そうですね。これだけの大きな地震だったので、鉄道網に大きな被害が出るというとこまでしか思い浮かばなかった状況です。
土屋さん: 揺れが収まった後はどういう行動をしましたか?
安田さん: まずは本社指令室に対して指示を各所に出していく体制を作りました。
我々は今までもたくさんの自然災害に対応してきました。異常時対策室という全国に指示を出せる場所から、本社指令室とテレビ会議回線をつないでその体制を作りました。
土屋さん: 被災状況を把握するまでどのくらい時間がかかりましたか?
安田さん: これまでの災害と違い、あまりにも大規模すぎて状況というのはなかなか分からなかったですね。

土屋さん: JR貨物によると、地震発生時には東北支社管内で27本もの貨物列車が走っていました。貨物列車以外にも港に専用の貨物駅などを持っていて、これらも大きな被害を受けたそうです。
JR貨物の東京本社にいた安田さんにお話を伺いましたが、東北でもっと大きな揺れに襲われた鉄道マンは、どのような状況だったのか?
現在はJR貨物の代表取締役社長で、当時は東北支社長だった真貝康一さんに聞きました。

土屋さん: 地震発生時、真貝さんはどちらにいましたか?
真貝さん: 秋田にいました。
午後2時46分、強い揺れとともに停電。幸い、電話・メールともに繋がっていたので、仙台にある東北支社との間でやりとりを一睡もせずにしていました。
土屋さん: 支社長としてどういう役目を担いましたか?
真貝さん: 対策本部を本社と東北支社で立ち上げることになりました。私は東北支社の対策本部長でしたが、震災の影響で東北支社に戻ることができない状況だったので、ナンバー2の次長に全権を譲りました。
気持ちとしてはすぐにでも東北支社に駆けつけたかったです。しかし高速道路は通行止めで、秋田からの新幹線も動いていない。自動車で行くしかないが、交通状況も分からないし、停電のため信号もついていない。すぐの出発は諦めて、一晩中情報収集をしながら、明るくなるまで待ちました。
そして明け方、ガソリンがたくさん入った車で仙台を目指しました。盛岡あたりで燃料が尽きそうになりましたが、ガソリンスタンドには長蛇の列。ガソリン補給にも時間かかるので、盛岡の貨物ターミナル駅に寄ってガソリン補給して仙台へ向かいました。
土屋さん: 支社長として、まずはどういうことが心配でしたか?
真貝さん: 社員の安否です。貨物列車が動いているので、途中停車せざるを得ません。そして運転士を配属されている職場に戻さらなければならないのですが、災害時には困難を極めました。

土屋さん: 真貝さんのお話で、東北では電気・ガス・水道など、生活に必要なインフラがほぼすべてストップしている状況が思い出されます。“物流がストップして東北にモノが届かない”という状況が起きることも分かりますね。
野月さん: 公共交通機関やライフラインが停止していることによる生活への影響を、まざまざと感じさせますね。
久野さん: 今まで聞いたインタビューで共通するのは、鉄道マンとしてどうにかしなければという使命感ですね。自分たちだって被災しているのに、まず鉄道をどうするか、何ができるのかと考えていたところにプロフェッショナルを感じました。
土屋さん: 貨物列車などが毎日運んでいる、生活物資の中に石油も入るのですが、さらにそこに支援物資も届けなくてはいけない。“モノを届けるのが仕事”のJR貨物ですから、とても大変だったのではないでしょうか。この辺りも当時、JR貨物の指令室長だった安田さんに伺ってみました。

安田さん: 通常、災害時にはコンテナ輸送のほうをう回させます。
我々には長年の経験といろいろなノウハウが身についているので、例えば東北線が不通だったらコンテナ列車を上越線、日本海縦貫線経由で仕立てて、物流を寸断させないようにするのを考えるのが普通でした。実際に東日本大震災のときも状況を確認しながら、どちらかというと石油列車じゃなくてコンテナ列車のう回の準備をしていました。
土屋さん: 物流を止めないように検討していたわけですね。
安田さん: 少しでも物が運べるような形を作ろうという準備をしていました。今回の場合は大動脈である東北線が寸断されたので、そこを通るたくさんの貨物列車の物流を少しでも絶やさないためにも、まずはう回列車でなんとかやりくりすることが最優先でした。

屋さん: 安田さんのお話から、当時は日々の暮らしを支える生活物資を届けるコンテナ列車を優先に輸送を計画していたことが分かりますね。
野月さん: コンテナ列車は東京から北海道まで行く長距離運用もありますので、う回による長距離輸送も大丈夫ですしね。
土屋さん: 先程聴いていただいた真貝さんのインタビューの中で、ガソリンスタンドに長蛇の列ができていた話がありましたが、東京でも“東北地方の石油がすぐに底をつくのでは?”と思った人がいました。ふだんから石油を運んでいる鉄道石油輸送の専門会社JOT・日本石油輸送で、当時は石油部のマネージャーだった遠藤尚さんです。

遠藤さん: 東北地方では家が津波で流されたり、地震の被害で帰宅ができなくて、車の中で暖を取る方も多いと聞いていました。
元々、北東北には盛岡向けに、南東北には郡山向けに石油を鉄道輸送していましたので、この時期の灯油の需要量というのは我々も知っています。それが震災で出荷が全くゼロになったので、そのゼロになっているということがどれだけ現地で被害が深刻になるか、灯油やガソリンがいかに不足してるかというのはすぐに分かりました。
ディレクター: ふだんどのくらいの量が行っているのですか?
遠藤さん: 例えば盛岡向けだと、3月のピーク時で石油のタンク列車が1日に3本、計50両ぐらいのタンク貨車が行きます。1両にタンクローリー車約3台分を運びますので、単純計算で1日150台分の量が行っていたのです。
それが震災発生により、まったく行かなくなって2、3日も経っているので、いかに不足しているかは肌で感じましたね。

土屋さん: JOT・日本石油輸送の遠藤さんのお話ですと、北東北だけで3月は1日にタンクローリー150台分を鉄道で運んでいました。それがすでに数日途絶えているわけですし、日常生活以外にも、緊急車両や行方不明者を探す重機、避難所の暖房などさらに石油がいるわけだから、石油がすぐに底をくのは納得です。
ところで野月さん、通常はどういうルートで東北に石油を運んでいるんですか?
野月さん: 仙台に石油会社が所有している東北で唯一の製油所があって、そこから盛岡と郡山に石油列車が出ています。しかし、仙台の製油所が地震と津波の被害を受けて稼働できなくなりました。
つまり製油所がダメ、運ぶルートの東北線も大きな被害を受けているので運べないという状況です。
土屋さん: こうなると運ぶ手段がないと思いますが、鉄道マンたちは日本海ルートがあることに気付いていました。
通常、石油列車の走行距離は200キロ程度。日本海側をう回すると1000キロを超える前代未聞の長距離輸送になるのですが、このルートが使えるのなら挑んでみようという流れになっていました。
その時の心境を、JR貨物の安田さんはこう語ってくれました。

土屋さん: 1000キロを超える、石油列車の輸送は前代未聞なのですか?
安田さん: 石油列車でいえば前代未聞ですね。
もちろんいろんな問題点があったのですが、今回の大災害で命に関わるような状況下で困っている方がいる。我々も応援や協力をしたいという気持ちが各自強くあり、しっかりと貨物鉄道で応援していこうという気持ちで団結しました。それがあったので、みんな動いていってくれたと思います。

土屋さん: 鉄道に関わるいろんな会社の人達がみんな同じ思いだった。
でも、なんでこんな大変なことを、たくさんの鉄道マンたちが会社の垣根を超えて頑張れたのか?
その答えは、JR貨物の代表取締役会長で、当時は副社長だった田村修二さんの言葉で納得しました。

田村さん: 被災地への貨物輸送を早急に復活させる話の中で「石油」という話が来たので、かなり困難で大きな課題だと思い、軽々しく「はい、できます」という状況ではありませんでした。
「すぐ動くなんてよして下さいよ。普通なら何カ月かかる…」と言うのは当然ですよね。しかし、そこをどうやったらできるかっていうことを考える。そういうことだったと思います。

立ちはだかった「タンク貨車」の壁。鉄道マンたちはどう乗り越えたのか?
土屋さん: そして、鉄道マンたちは石油列車を走らせるために高い壁に挑み始めます。
1つ目の高い壁は、「タンク貨車の壁」でした。野月さん、タンク貨車の壁ってどういうことですか?
野月さん: 日本海側を走らせるためには、高い壁がありました。
現在のタンク貨車の主流はタキ1000という形式で、45トンの石油を積むことができます。タンク貨車そのものの重さを加えると、1両で60トン以上にもなります。
しかし、日本海側ではタキ1000による石油列車を走らせた前例がありません。昔は36トン積みのタキ38000などが走っていたので36トンまでの許可は出ているのですが、45トン積みのタキ1000を走らせる許可が出ていない区間が一部ありました。
素人考えで言うと、45トン積みのタンク貨車に36トンだけ積んで走らせればいいのではないかって思いますよね?しかし、そうはいかない理由があったのです。
土屋さん: その理由を、JR貨物の関西支社・運輸車両部長で、当時は車両検修部・機関車グループのグループリーダーだった松田佳久さんに伺いました。

土屋さん: 石油輸送が他の貨物に比べて難しい点を教えてください。
松田さん: タンク貨車の構造が特殊だという技術的な問題があります。
タンクの中に「防波板」と呼ばれる仕切りの板が入っています。これはブレーキをかけた時に中の液体が揺れると、車両自体が動揺してしまうので、それを抑えるために設けられています。もし満タンで走れない場合、液体の揺れが大きくなることで防波板が破損してしまう可能性があるので、基本的に満タンである「積(せき)」か、空の状態の「空(くう)」かしかないのです。
こういった特殊な構造の車両なので、走行に合わせて運転士のテクニックや、車両のメンテナンスにも知識のある人が必要で、重量を減らして走れるようにするには機能的な確認と慎重な判断が必要でした。
土屋さん: 機能的な確認というのは、通常ではどういう手段でしているのですか?
松田さん: 省令で、車両を走らせるためには車両確認を国に届け出をします。
どの区間を走らせるかを含めて届ける。その際にはJR各社の路線をお借りするので、車両の構造、重量、車輪の配置などのデータを出して、走行して大丈夫なのかという確認をしていただきます。

土屋さん: 先程のお話で「空(カラ)」か「積(満タン)」しかないって言っていましたけど、これはなぜなのか? 改めて解説をお願いします。
野月さん: 満タンで走らせないと貨車が変な揺れかたをして、ブレーキが利かなくなったり、それによって脱線する可能性もあるので、満タンか空(カラ)のどちらかで走らせるのが決まりです。
土屋さん: なるほど。タキ1000は使えないので、日本海側も走っていた36トン積みのタンク貨車タキ38000で走らせるしかないのですが、じつは当時、老朽化による廃車が進んでいました。そんな車両を集めるためにどうしたのか?
JOT・日本石油輸送の遠藤さんにお話を伺いました。

遠藤さん: 当時、関東地区ですぐ使えるタキ38000が、どんなにかき集めても2編成分の36両しかありませんでしたが、それらをかき集める作業に入りました。首都圏では冬の石油輸送の繁忙期は終わりかけていたので、熊谷や宇都宮、千葉などに移動させて休車する手続きも始めていました。中には検査期限(車でいう車検)も切れている車両もありました。

まず、貨車がどこにあるのか確認をし、至急使うので休車の解除、合わせて貨車の検査をして、横浜(根岸)に持ってきてほしいという要請を行いました。検査も通常であれば1週間以上かかるかもしれない。
それに古い貨車ですので、最新式の貨車であれば最高時速95キロが出るところ、タキ38000は時速75キロしか出ません。よって首都圏の過密ダイヤの中で、横浜(根岸)に戻すのは非常にハードルが高いので、これも1週間以上はかかるのではないかと思っていました。

しかし驚いたのは、その手配を頼んでから見る見るうちに横浜(根岸)に貨車が集結していくんですね。
その瞬間にJR貨物の方、あとは場所によっては臨海鉄道の方たちも含めて、東北への緊急石油列車に対して、一致団結して普通にはない早さで集めてくれて情熱的な熱いものを感じました。

久野さん: まさに“鉄道マン魂”というのを感じますね!
土屋さん: 36トン積みの古いタンク貨車(タキ38000)が集まったことで、「タンク貨車の壁」はクリアしました。
でも“36両集まったから良かった”ではないんです。通常の3月には、盛岡に1日でタンクローリー150台分の石油を届けていたわけで、毎日この石油列車をピストン輸送しないといけません。
日本海側を経由すると、行くのに1日、帰るのに1日。さらに積み下ろしの時間も入れると、次に石油を積んで出発するには最低3日はかかります。つまり毎日届ける為には、最低3本の列車編成が必要になるのです。

ところで野月さん、タンク貨車は一度にどの位の車両数は運べるのですか?
野月さん: タンク貨車はとても重たいので、最大で約20両くらいです。
今回の石油列車だと、36両を2つに割って18両ずつ2編成に仕立てています。つまり3編成走らせるのには、もう1編成足りないのです。
土屋さん: ではどうすれば良いのか? 2編成で“3日に1日は届かない”とするのか? それとも3編成目から45トン積みのタンク貨車(タキ1000)を何とかするのか?
それだけではありません。日本海側を北上してどういうルートで内陸の盛岡に届ければいいのかなど問題が山積みで、JR貨物やJOT・日本石油輸送だけでは解決できません。
そして見えてきた2つ目の高い壁は、「たくさんの会社の壁」です。この話は後編に続きます!







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