玉砕の島サイパンから、私財をなげうち戦車を持ち帰った男がいた!
陸軍戦車隊の苛烈な死闘と悲劇のドラマが今ここに甦る。
第1章 サイパン島、昭和十九年
第2章 鉄の勇者・その光と影
第3章 北境から南溟へ
第4章 地獄の島の死闘
第5章 錆びたキャタピラ
第6章 波紋は幾重に
常食は蝸牛;かたつむりであった。
まず湯がき。
精強の第9連隊は、技術的には米軍をはるかにしのいだ。
戦車砲は見事にM4をとらえた。しかし、装甲が違った。
日本の九七式中戦車は25mm、M4は140mmである。
命中弾はボールのように、むなしく跳ね返るだけであった。
第9連隊の戦車はあいついでかく座し、煙をあげ、炎に包まれた。
かろうじて生き残った歩兵たちも、つぎつぎに倒れていった。
1919年、日本が第一次大戦の戦勝国となった結果、サイパン島をふくむドイツ領であったマリアナ諸島はグアムを除いて、日本の委任統治領となった。
珊瑚礁に囲まれた島の西海岸に、最大の町ガラパンがある。
東海岸は。ほとんどが切り立った断崖がつらなっている。島の中央部にあるタッポーチョ山の山頂から、島のほぼ全域が望める。
四季の区別はない。気温は6月で平均最高31℃、2月で最低24℃である。
戦前から南洋庁、南洋興発会社職員とその家族らが住み、米軍進攻前には2万人の邦人がいたと推定されている。
■アメリカ記念公園、日本刑務所跡
「絶対国防圏」
「帝国戦争目的達成に絶対確保を要する圏域」
蛙とび作戦;戦闘地域を速やかに日本本土に近づける作戦
制空権さえ奪えば、完全制圧を必要としない。
ラバウルを孤立化させたまま残し、マキン、タラワの次は、トラック諸島を飛ばしてサイパンを狙う。
現在、自衛隊久留米駐屯地には、日本戦車隊発祥の地を記念し、戦車兵関係者たちによる「戦車の碑」が建てられている。
「大正14年 この地に 日本最初の戦車隊が誕生した・・・」
日本の自動車工業は。当時はまだ揺籃期(ようらんき)にあった。
▲1 ゆりかごに入っている時期。幼年期。
■2 物事の発展する初期の段階。揺籃時代。「科学の揺籃期」
昭和11年5月には、自動車製造事業法が制定された。
陸軍が強く主張して、自動車または自動車部品の組み立て、製造事業を政府の許可制とし、税の免除などの優遇措置によって、自動車産業を振興させようとしたものである。
軍用自動車補助法の適用を受けたのは約10社だった。
実際に生産に入ったのは、石川島自動車製作所(スミダ車)、東京瓦斯電気工業(TGE車)、
ダット自動車製作所(ダット車)の三社で、その生産量もわずかであった。
石川島自動車製作所は、現在の「いすず」の前身である。
世界にさきがけ空冷式戦車用ディーゼル・エンジンの研究にも着手した。
当時世界では、ドイツで自動車用に高速ディーゼル・エンジンが開発されていただけである。
三菱重工で試作。
この戦闘車輌のディーゼル化が基礎になっている。
アメリカの主力戦車M4は大戦終了まで49,234輌が生産された。
日本の主力戦車の生産台数は2,472輌。
「訓練は秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)、
戦場では春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)を目ざした」
戦車砲の射撃は「停止射」「躍進射」「行進射」の3種類に分かれている。
戦車を止めて発射する「停止射」は、距離600mで100%の命中率を要求していた。
最終目標をサイパン島北端のマッピ岬。
バンザイクリフ慰霊碑
「戦火と死の島に生きる」
南部から撤退してきた兵隊は3,000人。
陸海軍が入り混じり、組織的な戦闘力をもたない小部隊がほとんどであった。
7月5日、南雲長官は全将兵に対し、総攻撃の命令を下した。
米軍によって「バンザイ攻撃」と名づけられた、日本軍にとっては最後の総攻撃命令である。
各部隊に紙片や口伝えで命令が流された。
後の調査で、総攻撃の行われた地域に、日本軍の死体が4,311が数えられた。
大本営の発表と同時に東條内閣は総辞職した。
日本の表玄関、サイパン島の失陥は大きな衝撃であった。
東條首相は南雲中将を呼んで「なんとかサイパンを死守してほしい。
サイパンが陥ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と語ったという。
家に帰った南雲は「誰に頼まれても、無理だ」ともらした。
~~サイパン作戦における日米の損害状況~~
日本軍の兵力;43,582人。
兵員の損害;41,244名
米軍の兵力;16万7,000人
海兵隊の戦死者;2,382人、負傷者8,769人
陸軍の戦死者;1,059人、負傷者2,698人
合計;戦死者3,441人、負傷者11,465人
在留邦人約2万人のうち8,000~10,000人が戦没した。
戦闘が終了して6週間後まで、米軍による民間人の収容者は14,949人。
うち日本人が10,424人、チャモロ族2,350人、朝鮮人1,300人、カナカ族875人だった。
ラスト・ジャパニーズ・コマンド・ポスト
Last Japanese Command Post
マッピ岬付近には無数の洞窟があった。
兵隊も民間人も入り混じり、その洞窟にもぐりこんで米軍から逃れようとした。これに対し米軍は火炎放射器を使い、手榴弾を投げこんで掃蕩しようとした。
絶望した在留邦人は、手榴弾を使って集団自決し、断崖からの投身者が相次いだ。
悲惨な状況を目のあたりにして、私は目をおおった。
子供をしっかりと抱きしめた母親が、90mもある断崖から身を躍らせた。
娘同士が手をとりあって海へと飛び込んだ。
髪がなびき、海面に吸い込まれていくのを目撃した。
父親たちは、子供を断崖から投げ落とし、そのあと岩の上で手榴弾のピンを抜き自決した。
親子5人が車座になり、手榴弾で自決している場面にもぶつかった。
「殺してしまえ」と非難の声がとんだ。
母親は、乳の出ない乳首を赤ん坊にふくませ、かたく抱きしめた。
泣き声は消えた。窒息死であった。
これらの集団自決は、アメリカ人にとっては理解が困難であった。
「われわれは、日本人の戦場における自決については、何もかも知りぬいておるつもりでいたが、それは誤りであった。米国海兵は、日本兵が最後の瞬間に自決することを予想していた。しかし、誰が一体この非戦闘員の凄惨な自決を予想したであろうか・・・。
この崖の上には非戦闘員である日本人の男、女、子供が幾百人もいたが、その者たちは極めて規則正しく崖から飛び降り、あるいは崖伝いに降りていずれも入水してしまった。なおも崖から見下ろすと、自決した他の7人の死体が認められた。
「そんなのは何でもないですよ。半マイルほどの西側に行ってごらん、こんなのが数百人もころがっていますよ」
陸軍戦車隊の苛烈な死闘と悲劇のドラマが今ここに甦る。
第1章 サイパン島、昭和十九年
第2章 鉄の勇者・その光と影
第3章 北境から南溟へ
第4章 地獄の島の死闘
第5章 錆びたキャタピラ
第6章 波紋は幾重に
常食は蝸牛;かたつむりであった。
まず湯がき。
精強の第9連隊は、技術的には米軍をはるかにしのいだ。
戦車砲は見事にM4をとらえた。しかし、装甲が違った。
日本の九七式中戦車は25mm、M4は140mmである。
命中弾はボールのように、むなしく跳ね返るだけであった。
第9連隊の戦車はあいついでかく座し、煙をあげ、炎に包まれた。
かろうじて生き残った歩兵たちも、つぎつぎに倒れていった。
1919年、日本が第一次大戦の戦勝国となった結果、サイパン島をふくむドイツ領であったマリアナ諸島はグアムを除いて、日本の委任統治領となった。
珊瑚礁に囲まれた島の西海岸に、最大の町ガラパンがある。
東海岸は。ほとんどが切り立った断崖がつらなっている。島の中央部にあるタッポーチョ山の山頂から、島のほぼ全域が望める。
四季の区別はない。気温は6月で平均最高31℃、2月で最低24℃である。
戦前から南洋庁、南洋興発会社職員とその家族らが住み、米軍進攻前には2万人の邦人がいたと推定されている。
■アメリカ記念公園、日本刑務所跡
「絶対国防圏」
「帝国戦争目的達成に絶対確保を要する圏域」
蛙とび作戦;戦闘地域を速やかに日本本土に近づける作戦
制空権さえ奪えば、完全制圧を必要としない。
ラバウルを孤立化させたまま残し、マキン、タラワの次は、トラック諸島を飛ばしてサイパンを狙う。
現在、自衛隊久留米駐屯地には、日本戦車隊発祥の地を記念し、戦車兵関係者たちによる「戦車の碑」が建てられている。
「大正14年 この地に 日本最初の戦車隊が誕生した・・・」
日本の自動車工業は。当時はまだ揺籃期(ようらんき)にあった。
▲1 ゆりかごに入っている時期。幼年期。
■2 物事の発展する初期の段階。揺籃時代。「科学の揺籃期」
昭和11年5月には、自動車製造事業法が制定された。
陸軍が強く主張して、自動車または自動車部品の組み立て、製造事業を政府の許可制とし、税の免除などの優遇措置によって、自動車産業を振興させようとしたものである。
軍用自動車補助法の適用を受けたのは約10社だった。
実際に生産に入ったのは、石川島自動車製作所(スミダ車)、東京瓦斯電気工業(TGE車)、
ダット自動車製作所(ダット車)の三社で、その生産量もわずかであった。
石川島自動車製作所は、現在の「いすず」の前身である。
世界にさきがけ空冷式戦車用ディーゼル・エンジンの研究にも着手した。
当時世界では、ドイツで自動車用に高速ディーゼル・エンジンが開発されていただけである。
三菱重工で試作。
この戦闘車輌のディーゼル化が基礎になっている。
アメリカの主力戦車M4は大戦終了まで49,234輌が生産された。
日本の主力戦車の生産台数は2,472輌。
「訓練は秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)、
戦場では春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)を目ざした」
戦車砲の射撃は「停止射」「躍進射」「行進射」の3種類に分かれている。
戦車を止めて発射する「停止射」は、距離600mで100%の命中率を要求していた。
最終目標をサイパン島北端のマッピ岬。
バンザイクリフ慰霊碑
「戦火と死の島に生きる」
南部から撤退してきた兵隊は3,000人。
陸海軍が入り混じり、組織的な戦闘力をもたない小部隊がほとんどであった。
7月5日、南雲長官は全将兵に対し、総攻撃の命令を下した。
米軍によって「バンザイ攻撃」と名づけられた、日本軍にとっては最後の総攻撃命令である。
各部隊に紙片や口伝えで命令が流された。
後の調査で、総攻撃の行われた地域に、日本軍の死体が4,311が数えられた。
大本営の発表と同時に東條内閣は総辞職した。
日本の表玄関、サイパン島の失陥は大きな衝撃であった。
東條首相は南雲中将を呼んで「なんとかサイパンを死守してほしい。
サイパンが陥ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と語ったという。
家に帰った南雲は「誰に頼まれても、無理だ」ともらした。
~~サイパン作戦における日米の損害状況~~
日本軍の兵力;43,582人。
兵員の損害;41,244名
米軍の兵力;16万7,000人
海兵隊の戦死者;2,382人、負傷者8,769人
陸軍の戦死者;1,059人、負傷者2,698人
合計;戦死者3,441人、負傷者11,465人
在留邦人約2万人のうち8,000~10,000人が戦没した。
戦闘が終了して6週間後まで、米軍による民間人の収容者は14,949人。
うち日本人が10,424人、チャモロ族2,350人、朝鮮人1,300人、カナカ族875人だった。
ラスト・ジャパニーズ・コマンド・ポスト
Last Japanese Command Post
マッピ岬付近には無数の洞窟があった。
兵隊も民間人も入り混じり、その洞窟にもぐりこんで米軍から逃れようとした。これに対し米軍は火炎放射器を使い、手榴弾を投げこんで掃蕩しようとした。
絶望した在留邦人は、手榴弾を使って集団自決し、断崖からの投身者が相次いだ。
悲惨な状況を目のあたりにして、私は目をおおった。
子供をしっかりと抱きしめた母親が、90mもある断崖から身を躍らせた。
娘同士が手をとりあって海へと飛び込んだ。
髪がなびき、海面に吸い込まれていくのを目撃した。
父親たちは、子供を断崖から投げ落とし、そのあと岩の上で手榴弾のピンを抜き自決した。
親子5人が車座になり、手榴弾で自決している場面にもぶつかった。
「殺してしまえ」と非難の声がとんだ。
母親は、乳の出ない乳首を赤ん坊にふくませ、かたく抱きしめた。
泣き声は消えた。窒息死であった。
これらの集団自決は、アメリカ人にとっては理解が困難であった。
「われわれは、日本人の戦場における自決については、何もかも知りぬいておるつもりでいたが、それは誤りであった。米国海兵は、日本兵が最後の瞬間に自決することを予想していた。しかし、誰が一体この非戦闘員の凄惨な自決を予想したであろうか・・・。
この崖の上には非戦闘員である日本人の男、女、子供が幾百人もいたが、その者たちは極めて規則正しく崖から飛び降り、あるいは崖伝いに降りていずれも入水してしまった。なおも崖から見下ろすと、自決した他の7人の死体が認められた。
「そんなのは何でもないですよ。半マイルほどの西側に行ってごらん、こんなのが数百人もころがっていますよ」