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日独150周年の最初の密使は、あのシーボルトだった。

2011-08-22 18:11:41 | 論壇
 2011年は日独交流150周年である。歴とした二国間条約による。幕末の文久元年(1861年)江戸幕府とドイツの前身プロイセンが、日独修好通商条約を結んだことに始まる。
 日独150年間で最も有名かつ重要人物は、文句なくシーボルトである。シーボルトの来日は1823年、オランダ商館員として、長崎出島に赴任したことによる。シーボルトは医師一家の家族に生まれ、自分もヴュルツブルグ大学医学部を卒業、医師をしていたが、どうしても、未知の地域で動植物の研究したい、という夢を持ち続けていた。これを聞いた伯父のベルリン大学教授が、オランダ軍医総監に取り次いで、日本行きが決まった。
 長崎・出島に上陸してからのシーボルトの活躍は目を見張る。オランダ商館員は、許可をもらわない限り、自由に出島以外で行動できない。しかし、シーボルトに限って、西洋医療の知識と指導力が抜群であったため、長崎市内を自由に行き来してよい許可を、奉行所からもらっていた。そこで、蘭学塾・鳴滝塾を市内に開設した。ここには、全国の藩校から選りすぐれた藩士たちが、国内留学してきた。この時代の西洋学は蘭学しかなかった。蘭学はオランダ学を学ぶのではなく、オランダを通して西洋学(約して洋学)を学ぶことだった。当時、日本にはシーボルトの鳴滝塾(長崎)、緒方洪庵の適塾(大阪)、佐藤泰然の順天堂(千葉・佐倉)が、わが国三大蘭学塾だった。ここに国内留学する藩士たちは、各藩のエリート中のエリートだった。この三大蘭学塾は、現在の東大・京大・阪大に匹敵するだろう。
 シーボルトは長崎の商家の娘タキと結婚して、娘イネを設けた。しかし、5年の任期を終えてシーボルトの帰国命令がオランダ王国から下った。そのときに、シーボルト事件が起きる。帰国の船が暴風雨で長崎港を出られず、岸に打ち上げられたのを機会に、シーボルトの手荷物が徹底的に調べられた。すると、徳川家の家紋の付いた羽織と、手書きの日本地図が出てきた。いずれも、国外持ち出し禁止のものだったため、シーボルトは足止めを食らい、調査の結果、国外退去処分になってしまった。これによって、タキとイネとの交流も失った。
 後にシーボルト事件による国外退去令は解除され、再来日が実現したが、タキは再婚していたため、シーボルトと再会を拒絶して、日本人夫に礼儀を尽くした。一粒種のイネは、シーボルトの弟子二宮敬作の教えを受けて、日本初の産科医になった。イネは幕末に江戸・築地に産科医を開き、明治になって宮内庁お抱えの産科医に登用された。シーボルトの置き土産は、皇室に西洋医学を学んだ女医を届けたばかりか、オランダ経由でドイツに帰国後も、オランダ王室やプロイセン政府に、日本に開国を進言するように、外からの開国に努力をしていたのである。外からシーボルトが、内から坂本龍馬らが、開国の扉を叩いていたことになる。
 シーボルトの足跡は長崎ばかりか、江戸にもあるが、築地のあかつき公園内には、いまでもシーボルトの胸像が建っている。築地の聖路加国際病院界隈は、幕末の開明派のメッカとなった場所で、杉田玄白や福沢諭吉などの住処やイネの開業医もあった。ここに、幕末のアメリカは公使館を開設した。現在のアメリカ大使館は、虎ノ門にあるが、築地の跡地には、聖路加国際病院と付属看護専門学校になっている。
 日独150周年を機会に、日独の数奇な運命と、行く末を考えようではないか。(シーボルトについては、拙著『日本の中のオランダを歩く』(1999.5.彩流社より刊行)に詳しく書いている)


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2 コメント

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Unknown (フリーク)
2011-08-24 16:26:29
makoさん、お疲れ様です。
シーボルトの功績と坂本龍馬の壮大なる志がなかったら、今日の日本はなかっただろうと思いますが、その2人の血と汗と涙の結晶は、第2次大戦を境に変わっていってしまい、今となっては、ろくでもないおバカな人達によって、手の施し様が無い日本になってしまいました。

いつの時代も「汚いカネ」で動くんですよね。

カネに目が眩む者は、どん底に落ちて、そこから這い上がって学習するものだと思いますが、しぶとく己を貫くおバカさん達は、ラッキーなのか分かりませんが、落ちることないんですよね。
不思議です。。。

ああいう人達に「功徳」があるなんて、とても思えないんですけど。。。

話がずれてすいません。
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Unknown (mako1)
2011-08-24 22:19:00
 フリークさん、こんばんわ。ボクが70年生きてきて、指導者クラスがここまで落ちているのを、「いま」以外に見たことがない。自分自身が勉強して、明治維新以後の近代日本の中でも、これほどまでに「無様な日本」を知らない。いや、大化の改新以来、「最低の日本」かもしれない。
 一般の国民は、指導者の導きについて行くだけだから、いつの世も変わらない。どんな色にも染まるのが国民レベル。いまは指導者不在ですから、どれにも染まらないか、いいとこ取りの斑模様の国民が多いでしょう。
 ボクが、少なくとも30年間言い続けてきたこと(=無責任国民は平和憲法の産物)が、ついに現実のものになった。日本国債のランクがまた落ちたが、最後は紙くずになるのを願っているのは、発行者である歴代大蔵(現財務)大臣であろう。返せっこないのだから。1日当たりの利息が約500億円ずづ増えているのですから、返済不能です。紙切れにしてチャラにするしかないでしょう。
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