社会を見る眼、考える眼

 新しいmakoworldブログを開設いたしました。SNS全盛時代ですが、愚直に互いの意見を掲げましょう。

『菜園バカの独りごと』は、野菜づくりを自己完結作業に位置付けた。

2011-08-27 21:45:21 | 論壇
私の健康法は、野菜づくりだというと笑われることがある。笑う人に理由を聞いてみたいものだが、聞いてもきちんと答えられないから、最初から笑っているに違いない。
 健康法と言えば、中高年に多いのが、ジョキング(≒ウォーキング)やゴルフである。どちらも、健康に寄与していることは分かるが、ゴルフの場合は、初老の人の健康維持には役立っても、健康増進にならないだろう。理由はボールを打っては、すたこら歩くだけだから、脈拍が120に上がらない。脈拍120は脳や手足の毛細血管まで、充分に血液を送り込む必要条件なのである。脈拍120は血液を充分回すポンプアップを意味し、一日にできれば30分前後が望まれる。これを逆算したのが、ジョキングや速歩の5kmである。これで30分前後脈拍を120にすることが出来る。一方、野菜づくりでは、天地返しや畝立て作業では、120まで上がるが、その他の作業では上がらない。しかし、土と野菜と戯れているだけで、精神と神経の弛緩(たわみ)が図られ、仕事での緊張をほぐしてくれる。このことが、目に見えない健康増進に役立っていると思う。さらに人体は、毛細血管まで充分血液を送りこまないと、末端組織に充分な栄養と酸素が行き渡らないために、組織疲労が起こり、老化を促進させる。そこで1日120脈拍が30分程度必要になる。ジョキングや速歩がアンチエージングに、最もふさわしいのは、自分のペースでできること、毎日やっても経費がゼロなので、誰もがやれることである。
 ぼくの野菜作りは、天地返しや畝を立て作業以外では、腰が痛くなる姿勢が多く、必ずしも健康増進になっていない。それでも、野菜づくりは、ぼくにとって欠かせないリフレッシュになっている。現役時代に終末菜園に出られなかった翌週、身体が重く仕事が目に見えて捗らなかった。
 何よりも、自分で作った野菜は、何故か滅茶苦茶美味である。採りたての鞘エンドウ、じゃがいも、トウモロコシをはじめ、ナスやキュウリ、トマト、ホウレンソウに至るまで、食べるまでに1時間以内に採った野菜は、流通経路を通った野菜とは別物である。
 ボクは野菜づくりを「自己完結作業」といっている。現代社会は何もかもが、分業で成り立っており、それがストレスを起こさせる。一方、自己完結作業では、心身ともに、疲労もストレスも吐き出しても、貯めることはない。前後左右の人間を気にしないで良いからだ。
 現代社会のインフラを残したまま、縄文時代に戻りたい。衣食住をすべて自給自足していた時代だから――。21世紀末には、そういう時代が来るかもしれない。野菜づくりの妙味を開陳しながら、文明批評までして見せたのが拙著「菜園バカの独りごと」である。


最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (フリーク)
2011-08-28 20:09:20
makoさん、お疲れさまです。

makoさんの畑は、一般の畑と比べて、実りの大きさというのが全然違うことや、プロを超えたこだわりと申していいんでしょうか、その追求が凄いと常々思います。

ちょっと変な表現かもしれませんけど、追求することって、楽しいというか、「こうしたい」という目標みたいなものがあるからこそ出来るんだと思います。自分もそうなんで。

畑の野菜は天の恵みであり、人が苦労されて実ったものですから、感謝を込めていただきたいものです。
返信する
好きこそ、モノの上手なれ (mako1)
2011-08-28 22:41:11
 同じやるなら、とことんやる。手を抜かない。すると、普通にやっている人たちの出来具合を、圧倒的に上回る。これの繰り返しが、飛躍的な結果をもたらす。
 これは、どんなことにも言えることで、いやいややっている仕事に、良い結果はない。義務としてやっている仕事にも、一定の役割はあっても、大きな成果は期待できない。ただマスプロダクションの流れ作業は、義務でやってくれる従業員を、いちばん大切にする。役割分担ですね。ボクはわがままなので、義務としてやる仕事は、1時間も務まらない。
 今日は、大根を3種類蒔きました。青首、聖護院、激辛です。いずれも11月から冬の間、食卓を飾ります。週後半の台風の雨を、発芽に利用したのです。
返信する
Unknown (フリーク)
2011-08-29 08:57:59
確かに「義務感」でやるのと「楽しくやる」とでは、全然成果が違いますし、精神的にも負荷が違ってきますね。

makoさんは「わがまま」の方が、芯を貫き通せると思うので、それでいいんじゃないかと思います。(すいません、上から目線で)

聖護院の大根は、漬物にするイメージが強いのですが、makoさんは、どの様に食されるんですか?
返信する
わがまま (mako1)
2011-08-29 22:28:29
 広辞苑で我儘(=わがまま)を引くと、1.自分の思うままにすること2.自分の思うままになること、となっている。1,2とも、悪い意味はないことが分かりました。現代では「わがまま」は「他人のことを考えず、周囲に迷惑を振りまくこと」となるはず。そういう意味が、まったくなく、自分の意志を通すことが、わがままの正しい意味です。古希になっても「広辞苑」を引いてみるこまめさが、得した気分になった。
 ボクはいよいよ「わがまま」をやめません。よいことなのだからーー。
 聖護院ダイコンは、京都の甘酢漬けが有名ですが、わが家ではつけものでは一切利用しません。ブリや鮭、鯛の兜と一緒に煮ます。魚の頭の骨が噛んで食べられる状態まで煮ると、聖護院ダイコンは溶けて、ゼリー状になります。それを一晩おいて、翌日食べると魚の不飽和脂肪酸と煮こごりと聖護院が一体になり、非常に美味且つ健康によい。
 わが家の珍味であり、スーパー健康食です。
返信する
Unknown (CYPRESS)
2011-08-30 23:51:08
>同じやるなら、とことんやる。手を抜かない。すると、普通にやっている人たちの出来具合を、圧倒的に上回る。これの繰り返しが、飛躍的な結果をもたらす。
→その通りですね。
私の場合、TV版『白夜行』で使われる『風と共に去りぬ』を『白夜行』の分析のために英語で読んでます。新潮文庫版の日本語訳が酷過ぎるので原著はどんなもんかと読み始めた訳です。
日本語訳と違い英語の方は、普通(笑)の文章です。あんな酷い訳でしか読めない日本という国は不幸です。悪訳版をいまだに出し続ける新潮社の責任は非常に重い。
返信する
新潮社なんて (mako1)
2011-08-31 23:35:44
 フリークさんしかレスポンスがないのがいいですね。みんな「XXが忙しくて、マコワールドまで、手が回りません」と言っている。つまり、フリークさん以外は、みな多忙なのである。これでは、フリークさんだけが、暇人になってしまう。こんなことが通じるのが「世間」なのです。いいじゃないですか。それで死ぬまでは生きられるのですから――。今日は東京に行って、ミニシンポジュームのパネラーを務めてきた。戦後日本人のいい加減さは、義務を放棄して、権利ばかりを散りばめた現行憲法にあるという、ボクの持論を手を変え品を変え語ってきましたが、聴衆は「飲み込み」が、非常に鈍い。完全にGHQの罠に嵌っている。国民レベル(=聴衆レベル)は、国防に対しては一切の義務は放棄するが、日本の平和は最優先課題という論理。これでは、日本は滅亡することが、どうして分からないのだろう。♪ ああ やんなっちゃ ああ 驚いた ♪
返信する
斎藤十一 (mako1)
2011-08-31 23:57:58
国民の70%ぐらいが、生涯を国家だ、中国だを意識しないで終えたいと思っている。それはいいのだが、だったら、日本が中国になろうが、ロシアになろうが、どっちだってかまわないのだろうか。どっちだってかまわないと思っている。それがぼくとの違い。新潮社は日本を代表する出版社だが、戦後、1946年、取締役編集担当になった斎藤十一(さいとう・といち)は、新潮社の編集方針を、こう規定した。「国民レベルで拍手喝さいを受けるテーマは、世に出る男たちのマネーとオンナである。あらゆる各界のリーダーのカネとオンナにまつわるスキャンダルを追い続けよう」といった社是が、現在も生きている。日本では出版社や新聞社、TV社を過信している知的国民が多い。知的でない国民は、新潮社など全く眼中にない。つまり、知的人間ほど、罠に嵌っている。
返信する
Unknown (mako1)
2011-09-01 16:50:54
新潮社のことを書いていたのは、フリークさんではなく、CYPRESSさんでしたか。このところ目がめっきり悪くなって、次回の73歳の運転免許証の更新は、視力(とくに視界不足)で撥ねられる可能性大。新潮社の編集部は、東大はじめ、早慶などのブランド大学出身者で固められていますが、雑誌作りは今でも「斎藤哲学」の亡霊から逃げ出せないでいる。人間の欲望は、古来から、イロ、モノ、カネ。支配者は身分でこれを確保してきたが、民主主義社会では、事業で成功して、カネを手に入れモノ、イロを自由にする。別に王族、貴族に生まれなくても、カネさえ手に入れれば、現代版貴族生活が出来る。「カネがすべてだ!」を書いたホリエモンの、出所後の第一作が楽しみだ。塀の中で読書ざんまいと、原稿を書いているに違いない。
返信する

コメントを投稿