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日本で唯一の県歌「信濃の国」

2013-03-28 22:17:57 | 論壇
「信濃の国」
ノンフィクション作家 河野實
信州育ちの人ならば、「信濃の国」の県歌を知らない人はいない。いるとしたら、成人してから長野県人になったモグリである。「信濃の国」が如何に歌われるかは、長野県民であれば誰もが接してきているので熟知している。小中学校から、高校までの運動会や文化祭などの行事ごとに歌われたり、地域の運動会や各地域の催事、はたまた県外の県人会や、長野県の学校ごとの同窓会、同級会などでも歌われる。長野冬季オリンピックでは開会式にも歌われ、世界に知れ渡った。
 ボクのように、学生時代を東京・中野の信濃寮で過ごした者は、寮の行事ごとに寮歌と「信濃の国」が歌われた。そればかりか、年中金欠病の寮生は、飲み屋でもう少し飲みたいのに、もう飲み仲間の財布の中はスッテンテン。そこで打ち上げを装って、「信濃の国」を全員で斉唱する。大衆酒場だからこそできるのであるが、三回に一回のペースで、お酒のカンパに預かることができた。
 「おい、君たちは信州出身の学生か」と言いながら、僕らのテーブルに近づき、「ママさん、ここにお銚子十本追加して、勘定は僕につけといて」と、先輩から寄付を受けることができたのである。現代のような世知辛い世の中では、こう言うことはあり得ないのではないか。県歌「信濃の国」はものすごい絆パワーをもたらすのである。
信濃の国は、丁度1900年(=明治三十三年)に完成した。完成したという書き方は、先にできた「信濃の国」は、まったく流行らず、出来た途端にオクラ入りしているからである。この歌は、戦前まで、信州では泣く子も黙ると言われた信濃教育会の発案で誕生した。信濃教育会は、戦前までの教育県信州の中核をなした教職員団体だった 1900年に完成した信濃の国の歌は、歌詞が先にできた。信濃教育会から県歌を作る委嘱を受けた委員にいた依田弁之助は、長野師範学校(=現在の信州大学教育学部)で音楽担当の教諭をしていた。依田は同じ師範学校出身の浅井洌に作詞を依頼した。 その浅井は、名門松本中学(=現松本深高校)の教諭になると、国学研究の学究肌に変身した。後に長野県尋常師範学校の教諭になると、漢学、歴史、国文の担当教諭についた。修学旅行では信州各地を引率して、歴史地理を教えながら、自らも歴史探訪の研究に役立てた。 つまり、信濃の国の歌詞は、浅井によってしか書けなかったのである。六番までの歌詞には、長野県の地理・歴史がまんべんなく散りばめられている。
 歌詞は長く、六番まである。一番では信濃の国は十州に県境が連なると書き、松本、伊那、佐久、善光寺の恵まれた平野(=耕作地)を上げ、二番では、信州の地理を山国にたとえ、御岳、乗鞍、駒ケ岳に加える浅間は活火山だといい、北には犀川と千曲川が流れ、南には木曽川と天竜川が淀みなく流れると活写した。
 名勝からは、姨捨山、寝覚の床、久米路橋を、歴史上の人物からは、木曽義仲(=旭将軍)、仁科五郎信盛、太宰春台、佐久間象山が取り上げられている。そして六番の最後は、こう結ぶ。古来山河の秀でたる国は偉人の習いある。
 この作詞は、文句のつけようもなく評価されて採用された。
「信濃の国」のことを聞き、作曲を申し出たのは、長野師範学校で、音楽担当をしていた北村季晴だった。北村が東京音楽学校ほかで学んだ、すべての音楽技法を取り入れ、七五調を基本に四番を除きニ拍子で、行進するように軽快に、勇敢に歌う。四番だけバラードふうに、ゆったりとしたメロディーに変わる。この箇所が、歌う信州人の絶頂期に差し掛かる。
 5番、6番はまた元のメロディーに戻り、朝日将軍義仲も~と勇猛果敢に信州人を鼓舞するように歌い上げる。歌い終わった信州人は、大きく深呼吸して、「我信州人に生まれて悔いなし」の気分になるのである。