goo blog サービス終了のお知らせ 

社会を見る眼、考える眼

 新しいmakoworldブログを開設いたしました。SNS全盛時代ですが、愚直に互いの意見を掲げましょう。

日本で唯一の県歌「信濃の国」

2012-12-24 11:22:07 | 論壇
 長野県育ちの人ならば、「信濃の国」の県歌を知らない人はいない。いるとしたら、成人してから長野県人になったモグリである。長野県人が小中学校で教えられる最初の歌が、校歌だとするならば、信濃の国は校歌の次に覚える歌である。戦後の日教組中心の教師時代は、決して国歌の「君が代」を教えなかった。  信濃の国が如何に歌われるかは、長野県民であれば誰もが接してきているので熟知している。小中学校から、高校までの運動会や文化祭などの行事ごとに歌われたり、地域の運動会や各地域大会、はたまた県外の県人会や、長野県の学校ごとのOB会、同級会などでも歌われる。
 ボクのように、学生時代を東京の信濃寮で過ごした者は、寮の行事ごとに寮歌と信濃の国が歌われた。そればかりか、年中金欠病に見舞われていた寮生は、飲み屋でもう少し飲みたいのに、もう飲み仲間の財布の中はスッテンテン。仕方なく、いつものように打ち上げを装って、信濃の国を全員で斉唱する。安酒を飲む大衆酒場だからこそできるのであるが、3回の1回のペースで、お酒のカンパに預かることができる。  「おい、君たちは信州出身の人間か」と言いながら、僕らのテーブルに近づき、「ママさん、ここにお銚子10本追加して、勘定は僕につけといて」と、先輩から寄付を受けることができたのである。 現代のような世知辛い世の中では、こう言うことはありえないのではないか。一度だけこういうことがあった。信濃寮に一番近い名画座という映画館の通りで、銭湯の帰りに「いっぱいだけ飲もう」と入った、割烹料理のカウンターで寮生3人が飲んだことがある。お開きのけじめに信濃の国を歌っていたら、外を通る通行人から、「君たちは、この近くの信濃寮の学生か。少ないけれど、これで飲んでくれ」と、1000円を置いていってくれた。当時の1000円は今の1万円以上の価値である。信濃の国という県歌は、長野県人にはものすごいパワーをもたらすのである。
 信濃の国は、丁度1900年(=明治33年)に完成した。完成したという書き方は、先にできた信濃の国は、まったく流行らず、出来た途端にオクラ入りしているからである。この歌は、戦前まで、信州では泣く子も黙ると言われた信濃教育会の発案で誕生したのである。信濃教育会は、戦前までの教育県信州の中核をなした教職員団体だった。教育県信州は、現代では見る影もなく、高校からの大学進学率などでは低迷県に甘んじている。戦後、教育の主導が信濃教育会から日教組傘下の長野県教祖に代わったらからである。信濃の国も泣いている。   話を元へ戻そう。1900年に完成した信濃の国の歌は、歌詞が先にできた。信濃教育会から県歌を作る委嘱を受けた委員にいた依田弁之助は、長野師範学校(=現在の信州大学教育学部)で音楽担当の教諭をしていた。依田は同じ師範学校の教諭仲間の浅井洌に作詞を依頼した。松本藩士の子として生まれた、浅井は日本文学を得意とし、政治活動、自由民権運動などにも進んで参加する活動的な男だった。政府批判の度が過ぎて、70日間の懲役刑を食らった強者でもあった。  
 その浅井が、名門松本中学(=現松本深高校)の教諭になると、国学研究の学究肌に変身した。後に長野県尋常師範学校の教諭になると、漢学、歴史、国文の担当教諭についた。修学旅行では信州各地を引率して、歴史地理を教えながら、自らも歴探訪の研究に役立てた。長野県の歴史・地理の知識を充分備えていた。  つまり、信濃の国の歌詞は、浅井によってしか書けなかったのである。  6番までの歌詞には、長野県の地理・歴史がまんべんなく散りばめられている。
歌詞は長く、さらに6番まである。それをほとんどの信州人は諳んじている。1番では信濃の国は十州に県境が連なると書き、松本、伊那、佐久、善光寺の恵まれた平野(=耕作地)を上げ、2番では、信州の地理を山国にたとえ、御岳、乗鞍、駒ケ岳、浅間は活火山だといい、北には犀川と千曲川が流れ、南には木曽川と天竜川が淀みなく流れると活写した。  名勝からは、姨捨山、寝覚の床、久米路橋を、歴史上の人物からは、木曽義仲(=旭将軍)、仁科五郎信盛、太宰春台、佐久間象山が満遍なく取り上げられている。そして6番の最後は、こう結ぶ。  -古来山河の秀ひいでたる国は偉人のある習い-  この作詞は、文句のつけようもなく評価されて採用された。 
 長野冬季オリンピックの開会式でも、「信濃の国」は世界に発信されたのである。こんな県歌を持っている都道府県は、ほかにないでしょう。あったとしても、ここまで県民の老若男女に歌われていないでしょう。 何しろ、1900年から100年以上も歌われ続けられているのですからーー。 信州人は凄いと思う。