リクルートの創業者江副浩正さんが2月8日肺炎のため亡くなった。76歳では早世である。筆者は経済誌勤務時代に大変お世話になった。 江副さんが創業したリクルートは、創業時は(株)大学広告。これは、新橋の第2森ビルの屋上屋に作られた事務所でスタート。その後、社名を日本リクルートセンターとして、東京駅八重洲口大通りに事務所を構えた。その時から、ボクは取材をしている。 その後快進撃を続けて、西新橋と虎ノ門の間に、初めての自社ビルを造った。その頃、僕の勤めていた会社も虎ノ門だったため、覚えきれないぐらいリクルートマン&ウーマンとお付き合いした。いま、独立してキャリアデザインを創業した多田弘美さんも、この当時からのお付き合い。もう時効だからいいますが、ボクが、多田さんをミサワホームの三澤千代治会長に紹介して、三沢さんの資本でキャリアデザインを創業させたのである。江副さんが目に入れても痛くなかった藤原和博さんも、杉並区立和田中学校長になったときは、校長室で取材させてもらった。 なぜ、そうなるかというと、ボクは色々な仕事をする中で、経営者の団体をいくつか創るお手伝いをしている。最初は 東急エージェンシーの前野徹社長とニュービジネス協議会を、企画段階からお手伝いした。毎日、赤坂の東急エージェンシーに通っていた。初代理事長を立教大学経済学部教授の野田一夫さんでスタートした。野田さんは80歳を超えた現在も(財)日本総合研究所会長である。この人脈で、次にアジア経済人懇話会を旗揚げした。初代会長はアサヒビール会長の樋口廣太郎さんに就任してもらい、ボクが初代理事事務局長になった。 まだある。今度は東急グループの総帥五嶋昇会長を担ぎ出し、SUNクラブを創設、この初代事務局長もボクが務めた。このクラブは凄かった。すべて一部上場企業の業界トップ企業の会長だけが有資格者。それも100社限定。毎月の例会の会場は五嶋さんから、キャピトル東急の指名があった。またしてもボクが、初代事務局長を任じられた。 この時にリクルート会長の江副さんが、このメンバーに入会してきたのである。その後、ニューヨークの事務所やリクルートコンピューターシステムなどを、江副さんから直々に案内してもらった。江副さんはすごい人だった。生まれながらの情報ビジネスの申し子だった。
すべての出発点は(財)東京大学新聞社だった。ここで大学新聞へ出稿する企業広告の営業を覚えた。東大新聞の編集に関わっていたら、リクルートは誕生しなかった。最初の(株)大学広告では、東大新聞を含むすべての大学新聞、一部高校新聞までの新卒向けの「企業広告」から出発した。それをまとめて「企業への招待」と冊子型にしたのが、のちの日本リクルートセンターのリクルートブックの原型だった。 企業は従来一社ずつ募集案内を出していたのであるが、まとめて出すことによって、イメージアップとコストダウンを図りたかった。学生の方は一社一社回って集める手間が省けるばかりか、就職情報をまとめてみることによって、新卒採用情報を比較検討できるメリットが大きかった。 これがベースになって、新卒ばかりか、中途採用、女性専門の「とらばーゆ」へと発展していく。これらはいわゆる「採用情報」の分野だった。採用情報以上の金脈は住宅情報だった。昭和40年代は団塊の世代の社会進出が始まっていた。ここに狙いを定め住宅情報誌が出版された。当初業界では、「不動産情報のチラシ雑誌」と、タカをくくっていたが爆発的需要を生んだ。ここでの工夫は不動産のチラシを情報ブックに高めることだった。情報誌の巻頭には、変貌する首都圏の住宅環境とか、家を選ぶ間違いのない10の方法、戸建とマンションのメリットデメリットなどのアカデミックな情報を掲載した。あとは、いわゆる住宅情報のチラシを綴じたようなものだったが、これを情報化する工夫を丹念に進捗していった。鉄道路線別情報、価格帯別情報、独身・家族別住宅情報 、間取り別情報、周辺ライフマップ付き生活情報などを網羅した。一社だけの情報でなく、各社のチラシ情報を細分・再アレンジすることによって、チラシ広告を住宅を求める需要者に「便利な情報」に変身させたのである。この変身情報こそが、リクルートビジネスの真骨頂だった。あとは、住宅情報の他産業版でよかった。海外旅行情報誌「Abロード」、再就職雑誌「Being」、中古車情報誌「カーセンサー」などなど、どんな分野も、原点はチラシ情報のブック化であった。 すごいのは、営業のゲーム化、スポーツ化だった。営業を陰湿な駆け引き行為にすのではなく、明快なセールスマシーン化した。情報誌別、エリア別などに分けて、営業行為をゲーム、スポーツするように、リーグ戦化したのである。目標を達成したセクションには、部署別、個人別に報奨金が提供された。達成した部署では、爆竹が鳴り響き、雄叫び、雌叫びが上がった。 ニューヨーク・マンハッタンの沖合に、島とは呼べない小さな岩礁がある。ここは無人島だが通信基地になっており、無数の通信衛星を結ぶパラボラアンテナが林立する様は、異様な雰囲気を醸し、現代のビジネス最前線基地の象徴にもなっていた。ここに江副さんは自前の通信タワーを持ったはずである。将来、日米間でビジネス情報のヒト・モノ・カネに関わる情報誌を出す構想を持っていた。何度も、その構想を熱く語った。 構想を持っていたことを知っていても、その後の展開を知らないのは、リクルート事件が起きたからである。全国紙を中心にこの事件は、執拗に波状攻撃された。 それは、まるでメディア抜きの各種広告情報誌を作られた江副ビジネススタイルへの意趣返しの様相を見せた。メディアはこぞってリクルート商法を真似たが、いずれも敗退した。それは「江副一人でできたことが、新聞社にできないはずがない」という、おごりと武家の商法だったからだ。江副さんは他社の追随を許さないために、大きな儲けを、リクルートコンピュータシステムにつぎ込んでいたのである。あの大型コンピューターと、インターネットがない時代から、本社・支社・クライアント・制作編集室を結ぶFAX自動送信システムでの原稿作成過程を見せられれば、メデイアのそれは情報先輩会社とは思えない、人海・手作業工程だった。情報を扱う速さと正確さでも、新聞社はリクールトに負けたのである。 惜しい。あんな事件を起こさねば、世界のリクルートに上り詰めていたはずである。しかし、江副が育てたリクルートマンは、あらゆる分野で活躍している。(合掌)
すべての出発点は(財)東京大学新聞社だった。ここで大学新聞へ出稿する企業広告の営業を覚えた。東大新聞の編集に関わっていたら、リクルートは誕生しなかった。最初の(株)大学広告では、東大新聞を含むすべての大学新聞、一部高校新聞までの新卒向けの「企業広告」から出発した。それをまとめて「企業への招待」と冊子型にしたのが、のちの日本リクルートセンターのリクルートブックの原型だった。 企業は従来一社ずつ募集案内を出していたのであるが、まとめて出すことによって、イメージアップとコストダウンを図りたかった。学生の方は一社一社回って集める手間が省けるばかりか、就職情報をまとめてみることによって、新卒採用情報を比較検討できるメリットが大きかった。 これがベースになって、新卒ばかりか、中途採用、女性専門の「とらばーゆ」へと発展していく。これらはいわゆる「採用情報」の分野だった。採用情報以上の金脈は住宅情報だった。昭和40年代は団塊の世代の社会進出が始まっていた。ここに狙いを定め住宅情報誌が出版された。当初業界では、「不動産情報のチラシ雑誌」と、タカをくくっていたが爆発的需要を生んだ。ここでの工夫は不動産のチラシを情報ブックに高めることだった。情報誌の巻頭には、変貌する首都圏の住宅環境とか、家を選ぶ間違いのない10の方法、戸建とマンションのメリットデメリットなどのアカデミックな情報を掲載した。あとは、いわゆる住宅情報のチラシを綴じたようなものだったが、これを情報化する工夫を丹念に進捗していった。鉄道路線別情報、価格帯別情報、独身・家族別住宅情報 、間取り別情報、周辺ライフマップ付き生活情報などを網羅した。一社だけの情報でなく、各社のチラシ情報を細分・再アレンジすることによって、チラシ広告を住宅を求める需要者に「便利な情報」に変身させたのである。この変身情報こそが、リクルートビジネスの真骨頂だった。あとは、住宅情報の他産業版でよかった。海外旅行情報誌「Abロード」、再就職雑誌「Being」、中古車情報誌「カーセンサー」などなど、どんな分野も、原点はチラシ情報のブック化であった。 すごいのは、営業のゲーム化、スポーツ化だった。営業を陰湿な駆け引き行為にすのではなく、明快なセールスマシーン化した。情報誌別、エリア別などに分けて、営業行為をゲーム、スポーツするように、リーグ戦化したのである。目標を達成したセクションには、部署別、個人別に報奨金が提供された。達成した部署では、爆竹が鳴り響き、雄叫び、雌叫びが上がった。 ニューヨーク・マンハッタンの沖合に、島とは呼べない小さな岩礁がある。ここは無人島だが通信基地になっており、無数の通信衛星を結ぶパラボラアンテナが林立する様は、異様な雰囲気を醸し、現代のビジネス最前線基地の象徴にもなっていた。ここに江副さんは自前の通信タワーを持ったはずである。将来、日米間でビジネス情報のヒト・モノ・カネに関わる情報誌を出す構想を持っていた。何度も、その構想を熱く語った。 構想を持っていたことを知っていても、その後の展開を知らないのは、リクルート事件が起きたからである。全国紙を中心にこの事件は、執拗に波状攻撃された。 それは、まるでメディア抜きの各種広告情報誌を作られた江副ビジネススタイルへの意趣返しの様相を見せた。メディアはこぞってリクルート商法を真似たが、いずれも敗退した。それは「江副一人でできたことが、新聞社にできないはずがない」という、おごりと武家の商法だったからだ。江副さんは他社の追随を許さないために、大きな儲けを、リクルートコンピュータシステムにつぎ込んでいたのである。あの大型コンピューターと、インターネットがない時代から、本社・支社・クライアント・制作編集室を結ぶFAX自動送信システムでの原稿作成過程を見せられれば、メデイアのそれは情報先輩会社とは思えない、人海・手作業工程だった。情報を扱う速さと正確さでも、新聞社はリクールトに負けたのである。 惜しい。あんな事件を起こさねば、世界のリクルートに上り詰めていたはずである。しかし、江副が育てたリクルートマンは、あらゆる分野で活躍している。(合掌)