社会を見る眼、考える眼

 新しいmakoworldブログを開設いたしました。SNS全盛時代ですが、愚直に互いの意見を掲げましょう。

ボクが独立して最初に書いた本『いま企業は、何をなすべきか』(大和出版刊)

2011-09-30 19:35:53 | 論壇
ボクがサラリーマンを辞めたのが、平成元年末。社会に出たのが、いきなりフリーカメラマン。食べられるわけもなく、サラリーマンのカメラマンになった。それから、書けるカメラマンとなり、後にライター専属になった。
 そこで、フリーになって最初に書いた本が、この『いま企業は、何をなすべきか』である。サブタイトルが<21世紀型経営の岐路と選択>となっている。目次を開くと、序章が、哲学がなければ、生き残れない。以下Ⅰ章から5章まで、時代に求められていること、地球にやさしく、ひとにやさしく、何を企業理念とするか、日本人としての国際人、志が経営を変える。終章は、21世紀に向けてなすべきこと、となっている。まだバブルが弾ける前から、少しずつ書きダメしてきた原稿だった。
 国民すべてが、バブルに踊り、地価と株が暴騰して、東京・銀座の土地1平方メーターが1億円に乗り、日経平均が4万円まで跳ね上がっていた。日本人の95%が中産階級と自他ともに認識していた。銀座の高級クラブに取り巻きを連れて、一晩数百万円も散在して平気な経営者がいた。そして、バブル経済は弾けたのは良かったが、そこからの10年は、“失われた10年”と言われている。しかし、10年で終わらなかった。バブル崩壊から今日まで、政治・経済だけでなく、教育・福祉、医療・年金、文化・スポーツまで、何から何まで低迷が続いている。
 その理由は何か。志を持たず、手練手管か、もしくは、MBAや弁護士・公認会計士などの、その道の達人=職人に頼り過ぎている。もっと、無資格の大人物で、大きな志を持った、“現代の坂本竜馬”のようなリーダーが出ないと、日本の未来は切り開けない。
 バブル経済までの財界人、経営者には、スケールの大きな器量のある経営者が、あらゆる業種に存在した。経団連会長の土光敏夫から、ビール最下位からトップに押し上げた、アサヒビールの樋口廣太郎、SONYの盛田昭夫・大賀典夫コンビ、二流の家電メーカーからNECをIT企業に引き上げた関本忠弘など、現代の経営者に比べ、スケールの大きさを感じた。これらの財界人・経営者に取材を重ねて、執筆したのが拙著である。
 土光敏夫の「荷掛け論」のさわりを紹介する。
 教育とは、企業単位でも、部署単位でも、これはという人材を探し出し、その人材を教育する方法として、絶えず課題を与える。簡単にできるものではなく、足腰を鍛えなければ、持ち上がらないほどの荷物を背負わせる。強くなっていく人材は、次々に新たな課題をこなしていく。こうなればしめたものだ。ころ合いを見て、会社や部署の命運を懸ける課題を託してみる。さすがに、これまでのようにスムースに運ばないだろう。そこで、荷掛け役の自分の手を貸すのである。手を貸すときには、自分の人脈・情報・スキルを惜しみなく注ぎ込む。これで最後の課題もクリアできる。こうして、会社も、部署も、後継者を育成していくのである。
 経済用語も、マネージメント用語もない、非常に分かりやすい、土光敏夫人材育成法である。(本著は1992年2月、大和出版より刊行された)

トラベルエッセイ『素顔のベトナム』を書くきっかけ

2011-09-17 20:52:45 | 書評
『素顔のベトナム』は、ボクが残した紀行文=トラベルエッセイの唯一のものである。そのキッカケは、1993年(=平成5年)の11月に、三宅和助氏の「ベトナム産業視察ツアー」に参加したことだった。三宅氏は前年に外務省中近東アフリカ局長を最後に退官したばかりだった。官僚臭のない、人間臭いところが、多くの民間人にファンを形成していた。そのツアーで、ボクはベトナム外務省日本担当の、グエン・ルオンさんを紹介された。「ベトナム全土を取材したいのですが、取材許可をもらえますか」率直に尋ねると「いいですよ。但し、国境警備区域と軍事施設のある所以外になります」という回答に、即座に「お願いします」と申し込んだ。ボクらが滞在中に、有効期間1年の全国の取材許可書が下りた。社会主義国での取材は、思わぬトラブルや事件に巻き込まれかねない。それだけに取材許可は、指定された地域や場所に限られるが、日本外務省OB主宰のツアーに参加した、最大の収穫だった。
 ボクは94年になって、11月までに5回に分けて、ベトナム全土と取材する計画を立てた。公共交通網のある所は、なるべくそれを利用し、ないところはクルマ、バイクをチャーターした。もとより取材を正確にするために、全行程に通訳をアレンジした。こうして。予定通り94年に取材を済ませ、書き上げた書籍が『素顔のベトナム』である。サブタイトルが<越南4000キロ探訪記>である。自国さえすべて回っていないのに、ベトナム全土63プロビンス(=日本の都道府県に相当)を踏破したのである。本著のさわりを少しだけ紹介する。

 ★大学と恋の町・古都フエ
 古都フエは、大学と恋の町でもある。わが国では京都が例にあげられる。しかし、国際的には、なんと言っても、ドイツのハイデルベルクであろう。マイヤー・フェルター作の『アルトハイデルベルク』の舞台にもなり、度々ここを訪れたゲーテは、ネッカー川に架かる橋を、世界一美しい橋と絶賛した。
 私は、まだ学生だったときに、ハイデルベルクを訪ね、油絵の額から飛び出したような景観が、いまでも鮮明に記憶に残っている。そこで、フエとの類似点を列挙してみる。
 イ 町を流れる川が美しく、川によって育まれた町
 ロ ハイデルベルク城とグエン朝王宮が双方の古都を代表する
 ハ 伝統のある大学がある
 ニ 歴史散策する若いカップルが、史跡で恋をささやく姿があとを絶たない
 ホ 両都市は、国際観光都市になっている
 フエを流れる川は、フォン川(香川と漢字表記され、英語ではPerfume River)と言い、ベトナムの川では珍しい、澄んだ水がしっとりとした雰囲気を醸す。一方ハイデルベルクを流れる川は、ネッカー川と言い、下流のルートビヒスアーヘンで、フランス側から流れるローヌ・ライン川と合流してライン川となる。
 フエ城はベトナム戦争の爆撃による傷痕修復作業を、あちこちでしていた。ベトナムはどこへ行っても、ベトナム戦争の破壊跡や、ベトちゃんドクちゃんのような、枯れ葉剤の犠牲者の姿を見る。
 
 ベトナムは西暦後約1000年間は、中国に接収されていた。近代に入っては、フランスに約80年間、隣のカンボジア、ラオスと共に、フランスの植民地になっていた。それが、日本のアジア侵攻により、フランスが一旦は仏印から撤退するも、日本の敗戦によって、再びベトナムに舞い戻る。それに抗したのが、ホーチミン率いるベトナム民族解放戦線(ベトミン)であった。1954年、ラオス国境のディエンビエンフーの丘で、フランス軍を壊滅させる。独立を勝ち取ったと思いきや、ソ連の介入に危機感を持ったアメリカが、フランス軍撤退後の南ベトナムに進行し、約20年間ベトナムに介入し続けた。戦闘を持って決着を図るも、ベトナム軍のゲリラ作戦に根を上げ、ついに1975年4月、ベトナムは南北統一を果たす。
 ベトナムは、中国、フランス、日本(=戦闘はない)、アメリカの大国に支配され続けるも、ついに独立を勝ち取った。それにしても大国の傲慢さは、現代にも随所に力ずくの支配が見られ、人間の際限のない強欲が国家になった場合、手をつけられないほどの、獰猛さを見る思いがする。ベトナムのハノイとホーチミン市にある「戦勝記念館」を見ると、その戦争の最前線の人殺しの凄惨さには、三日間食事がノドを通らなくなるほどだった。北に統一されたアメリカの敵意むき出しの、卑劣な戦争だった。その証拠にベトナム戦争に参加したアメリカ兵は、帰還後、社会復帰できない者が続出して、社会問題化した。それは、ソンミ村焼き打ち事件など、一般市民にむごたらしい死をもたらしたことが、帰還兵の記憶装置から消せないのである。
 旅エッセイでも、このような肝心なテーマからは、眼を背けていない。(『素顔のベトナム』は、1995年2月に同友館から刊行された)

巨大市場アジアを狙って成功した会社、失敗した会社。

2011-09-15 20:38:39 | 論壇
 「巨大市場アジアを狙え」は20世紀末に、市場経済化に成功した中国をはじめ、アジアの優等生シンガポール、さらにシンガポールの母国だったマレーシア、中国と同じように、社会主義市場経済化に踏み切ったベトナムなどに進出した日本企業を検証したものである。取り上げた10社は、すべて創業オーナー企業ばかり。国内、進出先をすべて取材してから、構成・執筆した。
 いまでは常識になっているアジアへの進出が、日本企業の場合、なかなか踏ん切りがつかなかった。いま話題のユニクロを展開するファーストリテーリングさえ、当時は安い生産コストによる生産基地として、中国を活用しても、市場としての展開はなかった。それが今では日本国内よりも、中国をトップに欧米も含めた海外市場の方が、はるかに巨大化している。それは、世界に通じる商品開発に成功しても、世界をマーケティングできなければ、世界的商品にならないということである。そういう意味で、今後のユニクロの展開は、SONYやCANONに続くような世界ブランドになるか、興味津々である。
 「巨大市場アジアを狙え」は、いまから16年前に書かかれたもので、発行は1997の2月である。アジアへの日本企業の進出は、ドルショックによる円の大幅な切り上げと、2度のオイルショックにより、国内生産では耐えきれなくなった企業が、止むを得ず進出に踏み切ったというのが、多くの企業の実態である。それ以前に、大企業は都市近郊より安い土地と人材を求めて、信越や東北に工場を移転したり、新設していった。その結果、1960年代まで、日本の主力工業地帯だった、京浜と阪神の2大工業地帯が、社会科の教科書からも消えた。それでも、都市部と地方の格差がなくって来ると、もはや国内に見切りをつけてアジアに出ていくのであった。これをボクはトコロテン的進出と言っていた。本来は海外に出て行きたくないのに、採算が合わなくなり、競争他社にコスト競争で負けることが判明して、押し出されるように海外に出て行ったのである。
 ところが、20世紀末に執筆した拙著のトップを飾ったマブチモーターは、アジア進出企業の元祖であり、優等生だった。それも、財閥系やそれに準じるような大企業ではなく、中小企業のうちに進出したのである。進出が東京オリンピックのあった1964年である。当時、香港は世界一の玩具輸出地域だった。マブチは香港に玩具用小型モーターを輸出していたのであるが、部品メーカーは生産地に近いところでつくるのが、最も効率が上がると考えたのである。アッセンブリーメーカーの意向に従ったり、追随したりしたわけではなかった。玩具での香港での製造ノウハウが、マブチモーターのその後の「生き方」を決定した。松戸の本社工場は新製品の開発と実験場と化し、製造はアッセンブリーメーカの林立する中国全域、アジア全域に生産基地を置いた。これに依って、年間60億個(当時)もの小型モーターの生産を可能にした。当時、同社では「カップラーメンのように、世界一高性能の小型モーターを供給する」がモットーになっていた。その結果、小型モーター部門で、マブチモーターは世界シェア50%を獲得したのである。
 その他、高野山を下りて仏門から還俗して企業を興したネミックラムダの斑目力廣の、起伏に富んだ半生にも触れている。創業間もない時期から、シンガポールをアジアのヘッドクォーターとして、アジア全域に生産基地を広げていった。反対に鳴り物入りで、返還前の香港、中国・上海に進出したスーパーのヤオハンは、日本のローカルスーパーを脱し切れず、再編にも乗り遅れて倒産。アジアの中国、シンガポール、その他の拠点も失ってしまった。
 いま、日本は中国よりベトナムかインドに進出を急ぐ傾向がある。中小企業ではもっと生産コストの安いバングラディッシュやパキスタンまで触手を伸ばしているが、そこまで行くと単に経済効率だけでなく、政情不安やテロにさえ巻き込まれかねない。こうしてアジアは西へ西へと発展の波が浸食していき、最終的にはイスラム圏の中東をもアジアの一部と捉えて上陸していくのか、宗教上の慣習とも絡んで来るため、さすがにその動きは今のところ皆無ではある。
 企業の海外進出は、欧米から始まり、いま、インドから東のアジアが、世界の工場地帯になっている。京浜工業地帯、阪神工業地帯が日本から消え、さらに日本中から工場が消えていくと、日本はアメリカ化して、国内生産を諦めて、第二次産業の国内空洞化国家になってしまわないか。そして、日本初の金融工学商品を、世界に売り飛ばすのだろうか。まさか!しかし、拙著をいま読み返すと、アジアでも、世界でも、日本の産業全体が地盤沈下しているのが、つぶさに読みとれる。その原因は、シンガポールや韓国のように、政治主導の産業構造の転換を推し進めなかったことに尽きる。この落とし前は、21世紀全体の日本に重くのしかかるだろう。バブル経済崩壊後、失われた10年と言われたが、21世紀初頭の10年も、日本の進路を構築出来なかった失われた10年である。(『巨大市場アジアを狙え』は、1996年2月、廣済堂出版から刊行された)

ボクに犬代わりに連れ回された愛猫チロ物語

2011-09-08 14:59:37 | エッセイ
 チロがわが家にやって来た。
 昭和26年の春、ボクが10歳のときである。本当は犬を飼いたかったのだが、いつも母に拒絶された。
 「犬は一人前のコメを食うんだぞ。そんなコメがどこにある」
 父は大阪に単身赴任。母は信州の片田舎で、4人の男の子を育てながら、田畑を耕していた。母の言葉づかいは、父親代わりを兼ねているので、とてもきつかった。
 「女手一つで、4人のぼこ(子供)たちをしとねる(育てる)のは、ひずこくずら(大変だろう)」と、親類縁者、近所から、母は言われ続けていた
 生家は信州の寒村にあった。父の出どころだった。太平洋戦争が始まるまでは、大阪の住金の社宅に住んでいた。疎開して信州の父の本家に転がり込んだ。しかし、終戦になっても、ロクな仕事がなく、父は本家や近所の農作業を手伝い、わずかばかりの野菜をもらってくるだけだった。そんとき、会社の復興の知らせが来たのは昭和21年の11月だった。父は母とぼくら4人を残し、勇んで大阪に行ってしまった。2年後に、小さな家だったが、真新しい戸建ての家が、山の麓の丘の上に建った。父が頑張った成果だった。
 猫は本家からもらった。
 「マコト、本家にビク持って、猫を一匹もらって来い」
 「チェッ、犬でねえのかよ。猫なんか野山に連れて行けねえじゃんかよ」
 「つべこべ言わず、早くもらって来い」
 仕方がない。犬代わりに猫を鍛えて、野山を連れて歩けばいい。ボクは口笛を吹きながら、畔道を本家に小走りで向かった。
 「マコちゃんが来たのかえ。子供を産まねえオスがいいズラ」
 おばちゃんは、みかん箱に入っている、数匹の生まれたばかりの子猫の股間を覗きながら言った。持って行ったビクに、オスの子猫を摘まみ入れながら言った。
 「猫はネズミを獲るで、かわいがってやらにゃあ」
 ぼくは、ビクを両手で抱いて、まるで貴重なスイカでも運ぶようにして、家に戻った。
 「母ちゃん、この猫の名前はチロに決めたで、毎日オラと寝る」
 「バカこいていろ。猫は夜ネズミを獲るのだから、自由にして外にも出られるようにしておかねばいけん。床下から出入りできるように、羽目板の端を切れ」
 母は猫を台所の板の間以外、ほかの部屋に入れてはいけないと言い渡した。しかし、真冬になると、障子戸を20cm開けておくと、チロはボクの布団の中に入って来たのだった。
 チロが4歳になった秋、裏山にチロを連れて遊びに行った。ボクは栗拾いに夢中になっていると、チロのことはすっかり忘れてしまった。気がつくと、チロがいない。
 「チロ、チロ、チロ来い」
 何度呼んでも出て来ない。チロがいつもいる軒先の薪の上、蔵の庇の下の藁の上など、どこを探してもいない。仕方がないので、山に向かって、両手でメガフォーンをつくって、出来る限りの大声で叫んだ。
 「チロ、チロ―、こっちへ来ーい」
 3回叫んだところで、チロではなく、母が家の中から飛び出してきた。
 「みっともないから、大声出すな。お前、また、ズボンにカギ裂きつくったな。藪に引っかけたズラ」
 母はチロのことなど、まったく頭にない。ボクのズボンの破れを見つけて、不機嫌な顔して家の中に戻ってしまった。
 ボクはもう一度、栗拾いをした場所まで行った。山の夕暮れは不気味になって来ていた。山の上には墓がある。よくキツネが出た。死者のお使いだと言われた。ボクは墓の方に足が向かず、中腹でチロを呼び続けた。チロの応答はなかった。もう家に戻っているかもしれないと、ボクも夕暮れの中、背中を押されるように家に急いだ。
 チロは家に戻っていなかった。ボクは落胆して、家に入ろうとしたときに、チロは腹になにか巻き付けて、庭に入って来た。よく見ると、ヘビである。シマヘビならば陸鰻(オカウナギ)と言ってご馳走になるが、毒蛇のヤマカガシである。
 ボクは家に入るや、大声で怒鳴った。
 「母ちゃん、チロが帰ってきたけど、ヤマカガシに首も腹も巻き付かれている」
 母は無言で庭に飛び出した。
 「マコト、なにしているんだ。早くヤマカガシをチロから取ってやれ、早くしろ」
 ボクは軒下の薪の上にあった桑棒を取り、チロに巻き付いているヤマカガシを剥がそうとしたがうまくいかない。
 「頭はチロが咥えているから、尻尾の方から剥がせ」
 母は強い口調でボクに命じる。尻尾に手を掛け剥がそうとしてら、チロは咥えていたヤマカガシの頭を、ポロリと落とした。ボクは急いでチロの腹に巻き付いているヤマカガシを、チロの後ろ脚を持ち上げて、縄跳びのように2回転して外した。そのまま、家の脇を流れる小川に投げ込んだ。
 チロはボクに近いづいてきて、ノドをゴロゴロ鳴らして、感謝するようなしぐさをした。
 (この愛猫物語のエッセイは、日本ペンクラブの競作として、2004年5月光文社より『私猫語が分かるのよ』と題した単行本に、約10ページ分が収められている)

メダカが絶滅危機に瀕して、人間社会は進歩しているのか。

2011-09-05 19:32:53 | 書評
自分の本を書評することが、可能か否かは自分ではわからない。拙著『メダカはどこへ』は、ぼくの著書の中では、トップクラスの出来栄えだと思っている。その理由は、10歳の眼で見た信州・伊那谷の風景と人間の営みを詳細に復元し、その後の50年間の見聞の眼を加えることによって、半世紀の時差のある複眼が、貴重な検証を可能にすることが出来た。例えば、メダカが絶滅危機に瀕していることだけを捉えて、嘆き悲しみ、あるいは政府や社会に憤慨したり、抗議しているだけではない。日本の発展過程で、自然が失われていくことに、国家も、市民も、マスコミも、無関心になっていたのは否定できない。それは発展を優先し、国民の一人びとりが、豊かさを最優先してきたからだった。1970年代は、交通事故死が年間2万人を超え、交通戦争と言われた。また、四日市ぜんそく、東京・環状7号線沿線の環七ぜんそくや、新宿・牛込柳町から始まり、全国化した光化学スモッグなど、日本公害列島と化した時代もあった。
 一方、農業小国と悪魔の飽食のツケ、食料自給率40%未満など、豊かさの中のゆがみが指摘され始めたのが、昭和50年代だった。悪魔の飽食の結果は、小学生からの肥満による成人病予備軍、20代、30代からの成人病の多発と、生活習慣病の大量予備軍。さらに豊かさの最大の復讐は、世界史に類を見ないような、急激な少子化。これに戦中戦後の多子化の反動が加わり、眼を覆いたくなるような高齢社会の復讐に遭遇している。少子化と高齢化が、これほどまでの規模で同時に到来した日本を、世界がかたずをのんで見守っている。
 北欧三国やニュージーランドの豊かさは、人口小国をベースに、一次産業をベースに工業よりもサービス社会を発展させた結果である。これらの地域を取材し、さらに日本をモデルに発展を目指すベトナムなどの発展途上国との比較も適切である。もちろん、本の全体の体裁はエッセーであるから、論文調にならぬよう、専門用語は可能な限り排除している。身近な自分の家庭菜園から、世界の食糧問題や環境問題に視点を拡大する手法を取った。
 「愛犬ハナ物語」では、希薄になる一方の人間関係と、異常なペットブームの背景に潜む人間阻害社会に、それとなく読者を誘導する。
 最後の章では、すべて現地取材をもとに、ベトナム、イギリス、ニュージーランド、オランダ、ドイツ、ロシアの自然と環境とリサイクル技術などを紹介した。10歳の少年が信州の至る所で見たメダカが、まったく見えなくなり、土の川がすべてコンクリートの水路になってしまった。その結果、冬場の水のない水路には、メダカやドジョッコ、フナッコの代わりに、自動販売機の缶やペットボトルが投げ込まれていると嘆く。その無様な視点から、日本や世界各国の、自然と環境への課題と取り組みを紹介している。(『メダカはどこへ』は、2002年5月、展望社より刊行された)