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社会を見る眼、考える眼

 新しいmakoworldブログを開設いたしました。SNS全盛時代ですが、愚直に互いの意見を掲げましょう。

ボクに犬代わりに連れ回された愛猫チロ物語

2011-09-08 14:59:37 | エッセイ
 チロがわが家にやって来た。
 昭和26年の春、ボクが10歳のときである。本当は犬を飼いたかったのだが、いつも母に拒絶された。
 「犬は一人前のコメを食うんだぞ。そんなコメがどこにある」
 父は大阪に単身赴任。母は信州の片田舎で、4人の男の子を育てながら、田畑を耕していた。母の言葉づかいは、父親代わりを兼ねているので、とてもきつかった。
 「女手一つで、4人のぼこ(子供)たちをしとねる(育てる)のは、ひずこくずら(大変だろう)」と、親類縁者、近所から、母は言われ続けていた
 生家は信州の寒村にあった。父の出どころだった。太平洋戦争が始まるまでは、大阪の住金の社宅に住んでいた。疎開して信州の父の本家に転がり込んだ。しかし、終戦になっても、ロクな仕事がなく、父は本家や近所の農作業を手伝い、わずかばかりの野菜をもらってくるだけだった。そんとき、会社の復興の知らせが来たのは昭和21年の11月だった。父は母とぼくら4人を残し、勇んで大阪に行ってしまった。2年後に、小さな家だったが、真新しい戸建ての家が、山の麓の丘の上に建った。父が頑張った成果だった。
 猫は本家からもらった。
 「マコト、本家にビク持って、猫を一匹もらって来い」
 「チェッ、犬でねえのかよ。猫なんか野山に連れて行けねえじゃんかよ」
 「つべこべ言わず、早くもらって来い」
 仕方がない。犬代わりに猫を鍛えて、野山を連れて歩けばいい。ボクは口笛を吹きながら、畔道を本家に小走りで向かった。
 「マコちゃんが来たのかえ。子供を産まねえオスがいいズラ」
 おばちゃんは、みかん箱に入っている、数匹の生まれたばかりの子猫の股間を覗きながら言った。持って行ったビクに、オスの子猫を摘まみ入れながら言った。
 「猫はネズミを獲るで、かわいがってやらにゃあ」
 ぼくは、ビクを両手で抱いて、まるで貴重なスイカでも運ぶようにして、家に戻った。
 「母ちゃん、この猫の名前はチロに決めたで、毎日オラと寝る」
 「バカこいていろ。猫は夜ネズミを獲るのだから、自由にして外にも出られるようにしておかねばいけん。床下から出入りできるように、羽目板の端を切れ」
 母は猫を台所の板の間以外、ほかの部屋に入れてはいけないと言い渡した。しかし、真冬になると、障子戸を20cm開けておくと、チロはボクの布団の中に入って来たのだった。
 チロが4歳になった秋、裏山にチロを連れて遊びに行った。ボクは栗拾いに夢中になっていると、チロのことはすっかり忘れてしまった。気がつくと、チロがいない。
 「チロ、チロ、チロ来い」
 何度呼んでも出て来ない。チロがいつもいる軒先の薪の上、蔵の庇の下の藁の上など、どこを探してもいない。仕方がないので、山に向かって、両手でメガフォーンをつくって、出来る限りの大声で叫んだ。
 「チロ、チロ―、こっちへ来ーい」
 3回叫んだところで、チロではなく、母が家の中から飛び出してきた。
 「みっともないから、大声出すな。お前、また、ズボンにカギ裂きつくったな。藪に引っかけたズラ」
 母はチロのことなど、まったく頭にない。ボクのズボンの破れを見つけて、不機嫌な顔して家の中に戻ってしまった。
 ボクはもう一度、栗拾いをした場所まで行った。山の夕暮れは不気味になって来ていた。山の上には墓がある。よくキツネが出た。死者のお使いだと言われた。ボクは墓の方に足が向かず、中腹でチロを呼び続けた。チロの応答はなかった。もう家に戻っているかもしれないと、ボクも夕暮れの中、背中を押されるように家に急いだ。
 チロは家に戻っていなかった。ボクは落胆して、家に入ろうとしたときに、チロは腹になにか巻き付けて、庭に入って来た。よく見ると、ヘビである。シマヘビならば陸鰻(オカウナギ)と言ってご馳走になるが、毒蛇のヤマカガシである。
 ボクは家に入るや、大声で怒鳴った。
 「母ちゃん、チロが帰ってきたけど、ヤマカガシに首も腹も巻き付かれている」
 母は無言で庭に飛び出した。
 「マコト、なにしているんだ。早くヤマカガシをチロから取ってやれ、早くしろ」
 ボクは軒下の薪の上にあった桑棒を取り、チロに巻き付いているヤマカガシを剥がそうとしたがうまくいかない。
 「頭はチロが咥えているから、尻尾の方から剥がせ」
 母は強い口調でボクに命じる。尻尾に手を掛け剥がそうとしてら、チロは咥えていたヤマカガシの頭を、ポロリと落とした。ボクは急いでチロの腹に巻き付いているヤマカガシを、チロの後ろ脚を持ち上げて、縄跳びのように2回転して外した。そのまま、家の脇を流れる小川に投げ込んだ。
 チロはボクに近いづいてきて、ノドをゴロゴロ鳴らして、感謝するようなしぐさをした。
 (この愛猫物語のエッセイは、日本ペンクラブの競作として、2004年5月光文社より『私猫語が分かるのよ』と題した単行本に、約10ページ分が収められている)

「ハナとカミナリ」(愛犬物語から)

2011-09-04 15:03:47 | エッセイ
20世紀末の暑い夏の午後、愛犬ハナが死んだ。13歳と9カ月で旅だったハナは、人間の年齢に換算すれば80歳になる。多臓器不全で亡くなったハナは、末期に腹水がたまり、肺と心臓を圧迫するため横になることもできなかった。真夏の太陽を避け、庭木に寄りかかったままの体勢で、絶命した。

 メスの雑犬であるハナが、わが家にやって来たのは、1986年(昭和61年)の11月だった。大学に通っていた長女が、学校の帰りにもらってきた。「世話するのが大変だから、返してきなさい」妻が執拗に言っても、長女は耳を貸さなかった。「あなたも黙っていないで、言いなさいよ」内心飼ってもいいと思っていたぼくに、妻は見透かしたように矛先を向けた。「パパ、私が面倒をみるから、飼わせて、お願い」長女は私に哀願するように言った。「まあ、いいだろう。しかし、生き物を飼うのは、ある意味で人間より、大変だぞ」
 結局、飼う羽目になったが、長女はハナと命名しただけで、一切面倒を見なかった。仕方なく、妻がドッグフードだけでなしに、家族が食べ残した魚の骨や頭にご飯を足して、ハナの雑炊をつくったりした。ボクはどんなに遅く、酔って帰って来ても、散歩を一緒にした。次女は長女に代わって、ハナのボディーシャンプーを担当した。
 ハナは雷が大嫌いだった。嫌いというより怖がった。雷鳴がとどろくと、庭で泣き喚き、テラス側のガラスをひっきりなしに前足の爪で引っ掻く。仕方なく、ビニールの風呂敷を敷き、戸を開けるとさっと飛び上がって、行儀よく座って、ぶるぶる震える。そのまま、ビニール風呂敷で包むようにして、バスルームに連れて行き、シャンプー&リンスをする。これで、家の中を闊歩できる。家の中で粗相をしたことは一度もない。雷の夜は、次女のベッドで一緒に寝る。翌朝は、次女が庭に面する引き戸を開けて、庭を指差し「ハナ、バイバイ」というと、さっと飛び出し、「ワンワン」と二礼吠えをした。
 ハナが亡くなった日、全員がショックで夕飯も食べられない状態になった。妻が白布で包み、みかん箱に入れた亡き骸に、みんなで焼香した。約14年、家族と一緒に過ごしたハナは、家族の愛を一身に受けて育った。ぼくのクルマに乗って、信州にも、箱根にも、九十九里浜にも行き、思い切り走りまわった。ハナに尋ねなかったが、よい生涯だったと思っている。
 ハナ以外にハナはなし。二度と愛犬、愛猫などは飼わないことを、家族で申し合わせた。 
 (ハナのエッセイ全文は、日本ペンクラブ編「犬はどこまで日本語が理解できるか」(光文社より2003年3月刊行)に収録されている。

「子供はみんな育つものではない」

2011-09-01 17:23:27 | エッセイ
鼻もちならない自画自賛から書くので、嫌な人はこの先を読まないでください。ぼくは短文の名手である。400字詰め原稿用紙10枚前後のものは、なにを書いても、身辺雑記か「いま想うこと」ぐらいしか書けない。これをエッセイという。一冊の本にするには、大きなくくり(=章立てという)を5章まで作り、その中身を6つ(小見出しという)ずつ構成すれば、6X5=30X10枚(400字原稿用紙)=300枚=230ページ前後の単行本になる。
 この手法で書き上げたのが、拙著の中では『メダカはどこへ』と『菜園バカの独りごと』である。一方、同じ10枚の作品を、同じテーマで30人で書いても、一冊の本になる。これを選集(=Anthology)と言っている。ペンクラブではこれまで3回の選集を募り、選定委員会が選抜するが、3回とも選ばれている。これは素人から募集する懸賞小説などと違い、全員がプロのモノ書きでペンクラブの会員同士で競うのであるから、高名な小説家が、必ずしも与えられたテーマでうまく書けるわけではない。むしろ、小説家はエッセイを書けない人の方が多いだろう。
 ということで、「愛犬物語」や「愛猫物語」では、三好京三、佐野洋、森詠、浅田次郎、米原万里、立松和平、志茂田影樹の各氏らと共にぼくの作品が選ばれている。ここに紹介するのは、三部作の中で一番高い評価を受けた「私を変えたことば」の、一節を紹介する。
 --川端で洗濯モノのすすぎをしている母に、数メートル上流のところで、ぼくはチンボを取り出し、勢いをつけて水面を弾いた。勢いがある分よく泡立った。「母ちゃんこの泡で、もう一回洗えよ」
 母は洗濯モノを放り出したバケツで水を汲んで、ぼくを狙って掛けてきた。「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」ボクは川の土手を上流に駆けて、裏山のチシャの木に登って、「ヤッホー」と叫んだ。
 この騒ぎを聞き付けて、向かいのばあさんが、泥ネギを手にしたまま、川向かいの土手に上がって来た。明治生まれのばあさんは、生粋の伊那弁を話す。「おめさんちは、ぼこ(男の子)ばっかし5人もいりゃ、せんてく(洗濯)するのてえへん(大変)ずら」
 大正生まれの母はすすぎの手を休めず、水面を見たまま、気後れせずに言葉を返した。「5人もいるけど、みんな育つものではねえし、また戦争があれば、兵隊にも取られる。手を掛けてしとねても(育てても)、みんなまともに(立派な成人)になるかも、分からねえ」ばあさんは母を励ますように「5人もぼこたちがおりゃ、2,3人はまともになるずら」「わしも、2,3人はまともに、しとなってくれなきゃ、生んだ意味もねえと思とっとるに」
 この夜、ボクはほとんど眠れなかった。自分の命を掛けて育てる母が、歩留まり5割が最低の目標と聞いて、他の兄弟の寝息を聞きながら、誰がふるい落とされるのか、母はその時、どうするのか、生きるというのは、大変な行為であり、親はなぜ子供を産み、育てるのか、10歳の頭では解決方法など分からず仕舞いで、いちばん鶏の鳴き声を聞いた。
 ぼくが自分の命と他人の命を、人生で最初に意識した日だった。(「私を変えたことば」は、2000年4月に小学館から刊行された)