まこちゃん日記2

まこちゃんのピンポン日記です。

6月5日 懐かし巡りの旅も最終日になってしまった。

2024-06-05 10:40:06 | 日記

 

         会津旅行―6 『 天守閣から城下町を 』

 

何もかも変わって、変わらぬものはお城の石垣だけだった。

4~50年の時の経過は、人も町の風景も良くも悪しくも変えてしまうのは当然かもしれない。

 

鶴ヶ城はさすがに観光客で賑わっていた。本丸もきれいになって天守閣は青空に聳え立っていた。

昔は本丸の広場も整備はされておらず天守閣もなかった。さらに一時はこの本丸に競輪場があった

のだから、今昔の感に打たれる。

本丸へのスロープや石垣の坂はソリやスキーの格好の遊び場であったし、夏は蝉取りと魚釣り、

秋は紅葉、春は桜の名所だった。

日々の生活や病の心配や経済的な苦労や悩み等もなく(というより知らなかっただけなのだろうが)

あの頃が一番幸せだったのではとつくづく思う。

 

天守閣へ躊躇していたが、尻を押されて意を決して手摺に必死に掴まりながらゆっくりと、他の観光客の

邪魔になりながらも一歩一歩と昇ってとうとう天守閣の見晴らし台へ到達することが出来た。

昔お殿様が見たのと同じ景色を目にすることが出来た。緑に囲まれた市街地、水を湛えてキラキラ光る水田、

遠くにはまだ白い飯豊山連峰そして磐梯山や東山に飯森山と素晴らしい景色だった。

お城の中の売店で会津そばを堪能する。

 

その足の序でにお城の傍の宮泉酒造のショウルームへ寄ってみる。老舗の大手酒造で「宮泉」を出している。

ここは小学時代仲良しだった同級生が嫁いだところでなので会えればとも思ったのだが、既に御隠居様で

山の方の別荘に引っ込んで居られるという事だった。記念に大吟醸を一本買って失礼した。

 

さあいよいよ帰路である。郡山を目指す途中、猪苗代湖畔の野口英世博士生誕の地記念館に立ち寄る。

ここは何年生の時だったか遠足で来たところだ。藁屋根、囲炉裏等があって暗い如何にも貧しい家で、

どんな苦境にあっても頑張れば何でもできるのだという無言の教訓を子供達に与えていたものだ。

それがどうだ、家全体が近代建築で覆われて、立派であるけれどいかにも観光施設という感じで、

博士のイメージは無くなっていた。早々に引き上げた。

 

一路郡山へ。そこから新幹線でというルートだった。6時半ごろには無事に茅ヶ崎へ帰りついた。

疲れたが良かったとホッとした。

今回の旅行では雅ちゃん由美ちゃん夫婦にはすっかりお世話になってしまった。有難いことだ。

それにしても年を取るとはかなり不便で結構辛いものだと改めて知らされた。

もう行くことはないのかと思うと、やはり妙に寂しさが込み上げてくる。何時か又そんな日が……。

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6月4日 6月最初のピンポン日

2024-06-04 18:28:05 | 日記

 

      『 会津磐梯山は宝の山よ~♪ 』

 

今日は会津旅行から帰って早くも2回目のピンポンだ。

何かをしているとか、忙しく動いている、移動しているといった旅行中の三日間は結構長く

感じられたが、家に帰っていつもの何もしない三日間というのはやけに早かった。

家での三日間はおろか何もしないでいた1週間も気が付くと驚くほど速かった。

何だか普通と逆の様なのが不思議だった。

 

先日も夕食をしていて、先週の今頃は東山温泉でしたね、やれ若松に居たわけだなどと話していると、

この1週間が何もしなかったのに無暗に早く感じられる。何かをやって心の充実感を覚えていると、

心に残るものがあって却って長く感じるのだろうか。

 

もうあれから1週間経つのだが、ピンポンに一回顔を出しただけで、あとは一歩も出掛けていない。

池のカメやフナやメダカに何度かエサをやりに庭に出ただけで、全く外には出ていないのである。

行きつけのコンビニさえ行っていない。もっともこれは会津の酒の手持ちがあるからかもしれないけれど。

 

何をしたかと聞かれれば、昼寝とこのブログの日記を連日書いた位だ。歩かなきゃとは分かってはいるが、

やはり疲れているのでその気が出ないようだ。

腰を掛けて出来るPCのブログ日記は、それでも三日分の旅行記を書くのに三日では書き切れず、このところ

毎日書く羽目になってしまった。いろいろ行動するといろいろ書くことがあるものだ。

 

今一番心にあること興味や関心のあることを書くのが日記のセオリーとすれば、まだしばらくはこの会津旅行

のことを書き続けるかもしれない。

 

医療費値上げ、電気料金値上げ、年金の減額、政治資金規正法、公明党の離反と再密着、蓮舫氏と小池氏の女の闘い、

トランプ氏の有罪評決などと関心事はあるけれど、今の私にとっては未だ会津旅行という私的な事ではあるけれど、

稀に見る一大事業の達成というこの事の方が関心事になっているからだ。

 

今日は14人の参加でフルメンバーだった。鳥居さんも早くから見えたが、家で転んでけがはしなかったが

体が痛いという事で専ら見学されていた。家にこもらないで出掛けよう、人と話をしようという精神は、

私も見習わなくてはと内心で感心してしまう。

シングルスを何回かやったが、ダブルスはもう見学や審判だった。まだ疲れが取れないのかと気休めをしているが、

どうも調子が悪い。何とか立ち直らなきゃと焦ってもいる。

守夫さんの着ていた会津の新選組Tシャツで黒地に金色の「誠」という字が輝いていた。

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6月3日 変わってしまった町に昔を探しに行く

2024-06-03 10:20:18 | 日記

    『ホテルの窓からの若松』 会津若松旅行―5

 

ホテルのロビーの外のテーブルで,町の空気を吸いながらの朝食も楽しい。

それにしても日曜とはいえ人通りは少ない。観光客以外では,やはり若松も人口減が

進んでいるのだろうか。

 

この日も思い出巡りの様だった。

市内の道は広く洒落た店舗があり、一番長く最後に住んだ我が家辺りは,レンガ敷で

野口英世青春通りなんて洒落た名前になっていた。

 

空襲が激しくなり、家族して疎開して最初に住んだ家を探しに行った。

ちょっと郊外になるがお城の東側という感じだった。目印は近所に藩の天文台跡があった

ことだ。ここもいい遊び場だった。すぐに見つかった。立派に整備されていた。これを基に

目的の家の見当をつけた。細い路地は覚えているが、こんなに狭い道だったのかと驚く。

確信は持てなかったが、毎晩お風呂を貰いに行ったお向かいの家らしき感じの空家を見つけた。

するとその前という事になるがそこは更地になっていた。ここは母と兄の三人で天皇の終戦宣言

を汗をかきかきラジオの前に正座して聞いた場所だ。

 

そんな思い出や感傷などを振り切って、いよいよ鶴ヶ城へ向かう。

途中で車中から、郊外に移転した我が母校(卒業はしていないが)の謹教小学校の新しい校舎が見えた。

 

もう一軒、お城のすぐ前の親戚をも訪ねてみた。そこは家も表札も代わっていて逡巡したが思い切って

インターフォンを押す。自分が何者かを説明するのが難しかった。相手は従兄妹の一番下の娘の旦那さんで

話は遠い。その娘だった子も出てきたが互いに面識はない。

この親戚にもお世話になったので、何とか感謝の気持ちを伝えたいと思ったが虚しいものだった。

まさに昔は遠くなりにけりだ!

 

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6月2日 子供の頃の思い出巡り。会津旅行―4

2024-06-02 10:49:05 | 日記

 

     『 会津藩御薬園 』

    ここは藩主の別荘を兼ねた、薬の栽培をしたところである。

 

東山温泉から若松に向かって下ってくると直ぐに右手に「会津武家屋敷」というのがある。

ここは筆頭家老の屋敷跡を保存したものである。

観光客にも人気と見えて、遠くからのバスや車が沢山来ていた。ここも昔来た時より整備

され充実しているようだ。その豪壮な屋敷に今更ながら会津藩の大きさ豊かさを感じた。

土産物コーナーを通らないと出られない設計にも今どきらしいとニヤリとする。

 

さらに市内に向かうと、道は広くて整備されモダンできれいな大きな店舗や量販店とか大手の

チェーン店のレストランが目につく。とても若松とは思えない。

 

横道に入ると一転して静寂になる。そんなところに「御薬園」がある。

ここも私にとっては何とも懐かしい所だ。あの頃、殿様ご一家はここに疎開のまま住んで居られて、

私はよく遊びに来たものだ。友達も連れて行き池でボートに乗った。

池の真ん中にある島の東屋での昼寝は気持ちよかった。又殿様の弟君で地元高校に編入していた方に

よく宿題を教えて貰った。思い出はキリがないがここは若松での大きな思い出の場所の一つである。

 

市の中心街に入って神明神社を訪ねた。親戚であり母の実家ともいえるのだが、もう従兄妹の子供が

宮司をしているという時代で、年賀状くらいしかやり取りはない。

大柄で若くて元気そうな宮司と奥さんと会うことが出来た。

 

野口英世青春通りと名付けられたメインの通りに面したホテルにチェックイン。

何とそこは私が東京へ引き上げる5年生まで一番長く住んでいた家と、道路を隔てた真向かいだった。

これにも嬉しかった。まるで昔にタイムスリップした感覚だ。

しかし当時の家は見る影もなく今では大きな駐車場になっていた。両隣の家も斜め向かいや近所のお店

も全くなくて新しく大きなきれいな店とか、駐車場になっていた。

あまりの変わりように思わず笑ってしまった程だった。

あの駐車している車列の三台目辺りの場所に自分はいつも寝ていたんだと家人に説明する。あの当時の

近所の人達はどこへ行ってしまったのだろうか、どうしているのだろうか。

数軒隣りだったお医者さんの石造りの建物だけがそのままだった。隣に新しい医院建屋が増築されていた。

ここの先生には、私が肺炎になった時に徹夜で進駐軍からのペニシリンを何本も打ってもらって命を救わ

れたことがある。お嬢さん先生もいてよくきれいな薬の空箱を貰いに行ったものだ。その先生も今は亡く

代替わりしているという。大先生は野口英世博士にそっくりな立派な髭とお顔の方で、見て貰っただけで

治るような気がしたものだ。

 

ひと休み後、10分位駅寄りの大町四つ角という一番の繁華街に、小学時代の同級生を訪ねた。

昔は歩いて行くともっと遠い印象だったが、昔の家の場所から歩いてもあまりに近いのに驚いた。

突然だったのにちょうど居られて奥さんと二人して歓迎して呉れたのがとても嬉しかった。

彼は今「自由空間」という催し物の会場を経営して、充実した生活をしているようだ。

何よりのことだ。何十年ぶりの再会だった。すぐ昔に戻って話が弾むところが何んとも良いものだ。

 

 

 

 

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6月1日 会津旅行―3 温泉大浴場に入る。

2024-06-01 09:56:07 | 日記

     『 東山温泉 』

 

ここ東山温泉は、子供の頃によく親に連れられてきたが、旅館の中に千人風呂という

大きなプールのような浴場があって楽しみだったが、今ではどこの旅館だったか分からない。

盆踊りが有名で二本の橋の間に櫓が建って川の周りを大きな輪になって踊る。

川面に写る明かり、旅館の窓明かりが幻想的で素晴らしいものだった。今ではどうなのだろうか。

 

温泉街は、原滝,向滝、千代滝、新滝と言った滝の付く老舗旅館は健在だったが中小の旅館、商店、

遊技場やら居酒屋などはすっかり寂れていて朽ち果てた建物が目についた。

過去の栄光今何処だ。寂しいものだ。今では情緒はないけれど、近代的で設備も良くきれいな旅館

ばかりの様だ。

 

温泉に入るのも憧れの一つだったが、心臓や血圧の病持ちには要注意だというが、そうでなくても

広い浴場で滑って転んだりの危険が多いと言われる。

つい一杯飲んでしまったのでその夜は入浴を控えた。しかしもう滅多に来ない温泉にきていて入らない

のは何とも残念だと、翌朝の朝風呂にちょっとだけ入った。川の音を聞きながら、山の緑に囲まれて

青空を見ながら足を延ばして入る温泉は気持ちが良いものだ。

生きていて良かったと思えるほどだ。最近では滅多にこんな感情はないけれど。

 

そんな気分に乗せられたのか、珍しく朝の散策に出た。あの先の角まで、そしてまた次のカーブ迄と

先が見えないのが幸いして、温泉の外れの「雨降りの滝」までゆるやかな坂道の温泉街を何千歩も

歩いてしまった。

久し振りの温泉浴や朝の散歩が出来たのは、非日常という旅の効果なのだろう。

朝食の頃にはもうふくらはぎが痛かった。

朝食に、好物の納豆もち(つきたて餅に納豆をつけて食べる)という郷土料理が出たのに、挑戦した

ものの入れ歯の悲しさで駄目だった。

そのあとゆっくりと若松に向かって下って行った。

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