『 心の中で花を手向ける 』
『人はみな仏の申し子として生まれ来る。育つにつれて人間の業と欲望が芽生え、
やがては生きるために自分勝手なエゴというものが身についてしまう。
そして時には夜叉の如く、又ある時には菩薩の如き人生を過ごす。そのどちらが
多いか少ないかによってその人の価値は決まる。
しかしどんな人でも死すれば再び仏の子となって安寧を得る…』 ある高僧の法話より抜粋。
数日前、隣のおばあさんが99才で亡くなったと聞いた。二人の娘さんとも
アメリカに住んでいて、上の方が挨拶にみえたそうだ。
もう全部済ませて明日にも向こうへ帰りますので何も心配しないでください
という事だったようだ。
うちでも向う三軒両隣でも誰も全く気が付かなかった。
隣に居ながら知らなかったのは昔流に考えるとなんか薄情なような申し訳な
いような気持に襲われた。しかし全く世間で言う孤独死なんていう悲壮感はなかった。
非常に気丈な方で、人のお世話になるのもお付き合いも、施設入りも嫌だと拒否されて
いたようで、人の出入りはほとんどなかったからだろうか。
数年前、まだ歩いておられたころ、ゴミ捨てに行こうと出たら家の前でばったり、
ごみ袋を持っておられたので「一緒に捨ててきましょう」と手を伸ばしたら、「年寄り扱い
しないでください!」とぴしゃりと言われたことを思い出した。
亡くなれば皆仏という、ご冥福を祈る。
私などもう少し生きているとしたら、どんなタイプの老人になるだろう。
人に頼りたい、助けられたい、人と仲良く付き合いたいという弱い頼りない老人にきっとなるのだろう。
数年前にお爺さんが亡くなられてからは、一人暮らしをしておられた。それでも最近では、
さすがに介護の人が三度三度の食事や入浴介護に大勢の人が見えていた。
入浴用の車がよく停まっていたから、お風呂など私よりも回数が多い位だ。ごみ捨てなども家まで
市の車が取りに来ていた。かなりの手厚い介護補助だった。お金持ちだからご本人の希望の通りに、
こうした自宅での楽な生活が出来たのだろう。
かなり昔に唯一、子供さんを通じての知人という方が、訪ねて来られて垣根越しに話し掛けられたのだが、
「人に同情されたり、助けられたりは嫌いな方だからいろいろご近所とはあるのではありませんか」と尋ねら
れたことがった。そういう強い方だったのだろう。
それにしても孤独とか寂しさなどは無縁で大した方だったと思う。
それでも昨夜の雨の名残で光っている隣家の屋根が、私には寂しげに見えた。