文政年間、武蔵の人。山形の産。
新々刀期という一時代を築いた水心子正秀の門。後に江戸に出、秋元家に仕えた。
文政4・5年頃に筑前大掾を受領、さらに嘉永元年に美濃介に転じている。
師の理論である復古刀説を実践し、備前伝・相州伝の他様々な伝をこなし、技量の上でも師を凌駕し新々刀最上作に位置している。全国各地で作刀した。
作刀期間は50年以上に及び、安政4年79歳で没した。
銘は「大慶直胤造」「荘司箕兵衛大慶直胤」「出羽國住人大慶荘司直胤」「美濃介藤直胤」「荘司筑前大掾直胤」。
見栄えという点では、実にすばらしいが切れ味の方は今ひとつである。
「むしろ切れない方である。他の無名刀の方が切れ味で勝るものが多い」という現代の研ぎ師の言葉もある。
腰が弱くすぐに折れ、実戦の役には立たないと酷評された時期もあったようだが、鑑賞用としての見栄えはやはりすばらしい。
新々刀期という一時代を築いた水心子正秀の門。後に江戸に出、秋元家に仕えた。
文政4・5年頃に筑前大掾を受領、さらに嘉永元年に美濃介に転じている。
師の理論である復古刀説を実践し、備前伝・相州伝の他様々な伝をこなし、技量の上でも師を凌駕し新々刀最上作に位置している。全国各地で作刀した。
作刀期間は50年以上に及び、安政4年79歳で没した。
銘は「大慶直胤造」「荘司箕兵衛大慶直胤」「出羽國住人大慶荘司直胤」「美濃介藤直胤」「荘司筑前大掾直胤」。
見栄えという点では、実にすばらしいが切れ味の方は今ひとつである。
「むしろ切れない方である。他の無名刀の方が切れ味で勝るものが多い」という現代の研ぎ師の言葉もある。
腰が弱くすぐに折れ、実戦の役には立たないと酷評された時期もあったようだが、鑑賞用としての見栄えはやはりすばらしい。