月下に杯を重ね

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肥前國忠吉(初代)・肥前國忠廣(初代)・武蔵大掾忠廣

2005-12-10 04:42:44 | 刀工
 慶長年間、肥前の人。橋本新左衛門。
 慶長元年に上京し、埋忠明寿の門に入る。
 慶長三年に帰国し、佐賀城下に居を構える。
 元和元年に再び上京、武蔵大掾に任じられ銘を忠広と改名した。
 寛永9年に61歳で生涯を終えた。
 最上大業物。
 その優れた血脈は、忠広の子である二代忠広は大業物、二代忠広の子である三代忠吉は最上大業物、さらにその子四代忠吉は良業物と高い技量の刀工を残しているのである。
 銘は「肥前國忠吉」「肥前國住源忠吉」「肥前國住人忠吉作」「肥州住忠吉」「肥前國藤原忠廣」「肥前國武蔵大掾藤原忠廣」「肥忠吉」「忠吉」。
 
 新刀期に入り、刀剣の生産地が江戸や大坂など流通の発達した大都市に移っていく中で、肥前に一大生産地が誕生した。
 これは領主である鍋島藩が手厚い庇護を与えた点、そしてなによりもこの忠吉を得た点が大きかった。
 初代忠吉は、新刀を代表する名工で、その一族郎党を上げ作刀に励み、肥前に一大刀剣王国を築きあげたのである。

大慶直胤

2005-12-10 03:26:43 | 刀工
 文政年間、武蔵の人。山形の産。
 新々刀期という一時代を築いた水心子正秀の門。後に江戸に出、秋元家に仕えた。
 文政4・5年頃に筑前大掾を受領、さらに嘉永元年に美濃介に転じている。
 師の理論である復古刀説を実践し、備前伝・相州伝の他様々な伝をこなし、技量の上でも師を凌駕し新々刀最上作に位置している。全国各地で作刀した。
 作刀期間は50年以上に及び、安政4年79歳で没した。
 銘は「大慶直胤造」「荘司箕兵衛大慶直胤」「出羽國住人大慶荘司直胤」「美濃介藤直胤」「荘司筑前大掾直胤」。
 
 見栄えという点では、実にすばらしいが切れ味の方は今ひとつである。
 「むしろ切れない方である。他の無名刀の方が切れ味で勝るものが多い」という現代の研ぎ師の言葉もある。
 腰が弱くすぐに折れ、実戦の役には立たないと酷評された時期もあったようだが、鑑賞用としての見栄えはやはりすばらしい。